90年代、00年代

自分に確認しておきたい。金融崩壊、世界の食糧問題などでいよいよ感じること。とうぜん、社会的には、環境保全型農業はこれからも支持すべきと思うが、今後、食について僕たちはどう考え、どう行動するのが良いか。

時代の動きは的確というか、必要なときに必要な事件事故がピタっと発生する。振り返ると、僕が今、遅まきながらヤバイと考えるようになった、そもそものおおもとは1990年代の状況のように思える。90年代がどんな10年で、次の10年としての今が、どんな10年なのか。ここらへんをしっかり理解して、次の10年、20年への足がかり、自分の立ち位置をはっきりさせたい。

ざっと90年代のこと。ベルリンの壁崩壊が89年。ソ連崩壊91年。平成大凶作は93年で、翌年食管法改正。ウルグアイラウンドからWTOが生まれたのが95年、農水の有機に関するJASガイドライン、PL法もこの頃だ。おっと、野茂英雄ドジャーズ入団は95年。遺伝子組み換え作物の栽培開始は96年。バブル崩壊も。後半はなだれのように様々な問題が噴出していく。東海村原発事故、所沢ダイオキシン問題、環境ホルモン問題、雪印に象徴される食品偽装はその後、掘れば掘るほど出て来たし、98年はちゃっかり、LTCMの人がノーベル賞を授与されてたりした。あれれ、ゆとり教育とかで学校が完全週休2日になったのもこの頃か。99年はユーロが登場した。

きっと90年代は冷戦後の世界が考えを変えていく過程だったんだろう。来るべきグローバル経済への助走期間として、国や多国籍企業はせっせと21世紀への準備を始めていた。生活や生産の現場はそれまでの枠組みの金属疲労というかシワ寄せで、それまでばらばらだった不安心理が何か共通の“不安”に収斂していった感じ。当時は何がどうなっているのか、何だかわからなかったが、振り返って考えると、この10年でみんなが、どこか骨抜きにされていったのかな、と思う。のほほんとしていたのか。

いやいや、活動の進展過程にあった(団塊)市民セクターの動きもあった。勝手な解釈だが、70年代にオルタナティブを目指して芽生えた各地の様々な市民運動は、86年のチェルノブイリ事故を経て質的転換を目指し始めていた。コマゴマと分散していた運動体がヨコ連携を果たした“ばななぼうと”が87年、民衆交易を標榜する株式会社ATJもこの頃か。僕のウンのツキでもある、ら社創業は88年、反原発派市民セクターが衆議院総選挙にチャレンジしたのが89年、新党ブームで与野党逆転の総選挙で高見裕一氏が当選したのが93年だ。94年の阪神淡路大震災では市民ボランティアの存在が大きくクローズアップされ、この年に大地を守る会が主導して全国の“いのち派”生協、ら社も結集してDEVANDAという集会も催された。有機JAS法反対!もしていたし、遺伝子組み換え反対! 環境ホルモン反対! ダイオキシン反対!と、やたら元気も良かった。そして98年にはNPO法施行。

有機JAS法施行2000年。ジョージ・M・ブッシュが大統領になった年。2001年、あの911テロが起きたその日には国内初のBSE感染牛が報道されもした。ここから気分もいきなり変わっていった。ブロードバンド、インターネットの爆発的普及も2000年に入ってからで、Googleが株式公開!とマスコミを賑わせたのは2004? グローバリゼーションというヤツが世界中を席巻。以降現実に起こる問題を追いかけるように、様々な規制と自由化が進んでいった。ああ小泉政権も。“トレーサビリティ”という、当時は聞き慣れなかったコトバも一般化した。食育基本法消費者庁?おっと会社法防衛省07年。この間、消費者の意識もだいぶ変化したように思う。ポピュリズムが制度化されていった流れとでも言うか…。

さて市民セクターはといえば21世紀になってどうだったろうか。痛みも伴うのであまり書けない気がするが、ら社は企業に売却された。2000年、あの藤本敏夫さんが自然王国を設立するも02年に亡くなってしまった。僕の敬愛する山尾三省さんは01年8月に。スローフードムーブメント、00年(日本で)。カルタヘナ条約発効04年、06年にはとうとう有機農業推進法施行。

……歯抜け部分もあるかと思うが、こんなところがざざっと浮かんだ出来事。わかるだろうか。変化しているのだ。以上を総括していきます。

なんのこともないが

寒〜い一日、シゴトで何があったわけでなく、ウチに帰って食べた晩ごはん。放っておいたら和食一筋のようなわが女房さまのつくってくれたごはんにホッとする。このまえ畑で採ったこかぶの煮付け、寒風にさらされてただけあり、外皮がスジばってぺっ!と出すが中はやわくておいしい。ホウレンソウお浸し、ブロッコリー。どれも○。なぜかタッパにレモン。ああこれは熊本の中嶋さんが暮れに送ってくれたもの。あったかいもんだ。

困った困った

正月明けから再開したblog、やや元気なく始まったのは、やっぱり自分が“がっかり”しているからなのだろう。改めてその“がっかり”をテコに、いったい自分は何考えてるのか、ふらふらヨコ道にそれ易い自分を、ちょっと戒めつつ、少しは考えにホネを持たせたいものだよと、さすがにヤバいよと思ったからだと思う。

そんなコンディションで、じわっと自分を追い詰めている(そんな大げさではないが)のが、制度や法や政治、国際関係から論じられる“農”と、より理想的な暮らしを標榜する結論または過程としてかけがえのない“農”との距離感。その両方にそれぞれ意見してしまう自分の論拠の脆弱さ周辺の悩みだ。小難しい言い回しになっちゃっているが、状況的に、個人の自由を認める社会の容量がどんどん小さくなっている訳で、その現実をどうしても“後退”または“退化”としか思えない自分は、なんとか個人の自由、言い換えればそれぞれの豊かさを拡大することの大切さを、堂々と胸を張って論じたいアセりがあったりする。ってワケわかんないか。

なんで“論じ”なきゃなんないんだよ、と問われるとここでまたギクッとする。なぜならば論じることを停止して即、自由の実践に進んじゃえばいい、自分がしたいことをする権利を行使することもできるんだから。でも“論じ”たいのは、ちょっとだけの理由がある。それは衝動の一種かもしれない。世の中を席巻するポピュリズムに、気分的に負けたくない。“思考停止”といわれたくない意地。ということでまあ、自縄自縛に陥っているというのが今の僕の正直な心境だ。hold on!

赤い色(緑色でも可)に染まった人たちの集団があれば、より赤い色を放つヤツがいて、赤い色が薄いヤツもいるのに、全員で赤いサングラスしちゃったようなもんで、皆サングラス色に染まろうと行動する。より赤ければ分裂し、といった価値観は流行らないのだろう、美人コンテストに投票するのではなく、優勝者を言いあてるレース。個々の実質を問題としない虚のカラクリは露呈したのだから、ね?

……関係するかどうか、もちょっと自分の生活周辺ネタも意識して描いて行きたいな。おととい11日は寒い寒い満月だった。女房子どもと畑に行く。放りっぱなしの一角に寒さでちぢこまったホウレンソウ、小かぶ、ブロッコリーの花たち、菜花が採り放題。休日料理は東坡肉(トンポーロー)。お世話になってる玲舫さんの「中華のツボ!玲舫’sぶろく」最高ですな。おいしい。年末の大掃除で捨てられずにいた粗大ゴミ(籐椅子、デッキチェア、穴だらけのフトン、壊れたCDデッキなどなど)を車で処分場に。おかげですこし広くなりました。

めざせ脱却! 東坡肉のようにコトコトと実質を煮詰めていこう。

畑は海である

ずいぶん昔、「稲穂は海」というような表現に出合ったことがあった。
たわむ稲穂が風になびいて、波の幾何学模様を描くそのさまに、ああなんて田んぼはすばらしいんだろうと、たしか30歳のころ、感動したこともあった。その記憶から、旅は野道を歩くのがいいと、一人勝手に“野道ウォーキング”なる言葉をつくって、休みの日には(当時千葉県に住んでいたのだが)房総半島周辺の畑を歩き回ったこともあった。
そして最近、切り口は全く違うが、このイメージを思い出すことになった2つの話を聞き、読む機会を得た。話のほうは小松さんという方の水産資源がらみの話、本のほうは神門(ごうど)さんという農業経済学者の『日本の食と農』という本だった。
日本の漁業はオリンピック操業といわれ、よ〜いどんで資源が枯れるまで競争してしまうから持続性がない、ヨーロッパの漁業は、まず先に水産資源はその国民共有財産であるとみなしたうえで、漁業者に操業権とその適正で持続的な管理の責務を課す。小松さんは、資源管理型漁業といって、海は無限ではないという前提から、海を畑になぞらえて話しをされていた。
ところが神門さんの本は、その当の畑、農業の問題を厳しく糾弾していた。神門さんの主張は乱暴な要約をするとまず、農業者、農地、農協、制度などの構造的な問題の顕在化を明らかにする。別の本で「僕は既得権益とか不労所得というものを徹底的に嫌う」というような発言をしていた神門さんは、中山間地の高齢化などが耕作放棄の拡大の主要因といった説はまやかし、放棄地のほとんどが、自分の農地が巨額の財産に化けることを期待して、耕さないまま放置している優良農地である現状を嘆く。農地というものが、あたかも先祖伝来、その当地を所有している農家の私的な財産だとする考えは間違っている、農地は農地法に定められた条件のもとで審査されてはじめて取得が許されるもので、本来は国民共有の財産であればこそ許された特別な所有権……。
この農地の話から僕が「畑は海である」という連想をしたのは、神門さんが農地というものをこの上なく真剣に、(言い方は陳腐だが)愛しているのかなと感じたからだ。
専門的な指摘や状況分析は僕のシゴトとも関わりのある部分で、説明すると長くなるので、というか力が入ってしまうので省くが、悩ましく苦々しい農政という現実からこつこつ紐解く神門さんの論点から浮んできたのは、畑を耕す人が、汗をしてひたむきに土に向き合い働く姿だ。働かない土地持ち非農家がいない農地。その場所から、海のようにみんなから愛され、作物がそよぎ流れる畑が広がる情景が浮び出てきたのだ。とても素朴に、難しく考えなければ、畑も豊穣の海なのである。涙することのできる風景なのである。
耕すことで無から有を生み、国民のかけがえのない食を保障する農地というものは、国民のみんなから愛されて、その信託を受けて、農業者に預けられている。と考えると、少なくとも農業者は、土地転がしなんぞ考える不純な輩であってはならない! その信託に誇りを持って応えたい、という社会的な責任感と生きがいを持つ人から選抜されるべきだ。少なくとも全耕地面積の半分ぐらいはないと信頼されないんじゃないか。WTO規制緩和だと騒ぎ、同時に自給率50%など矛盾を抱え込んでいる今の日本で、その内実が土地転がしの耕作放棄となれば、国はどんな説得力も生むことが出来ずに総崩れ、この食料争奪の時代に、働かない農民が増えて自給も出来ず、かといって外国からも売ってもらえない総崩れの状況になっちゃうんじゃないか。
(こう考えるとその先には個人またはコミュニティ単位での自衛または自給という考えにも思い至るが)
……さてこの純然たる発想、いささか原理的なので、残り半分の半分は中山間地のサンクチュアリ的な場所や、企業参入も土地ころがし何でもありの場所とか、世捨て人救済瞑想異空間とかたくさん実験すればいい。僕はその他の場所にいつか瞑想の場所ほしい……

これ以上は困る

以前読んだ水関係の本に、世界的に水資源が争奪戦の様相を呈している状況に対して「水はニーズか権利か」という命題が提起されていた。単なるニーズであれば商品として、その行く末は企業の手に委ねるべきだし、権利であれば国、国際社会の責務として擁護されなければならないという議論。
昨年決裂したWTO農業交渉では「食料への権利」を軸に南北間の利害対立が明確化したという。「健康で活動的な生活を送るための安全で栄養のある食料へアクセスできるということは、すべての人が生まれながらに保障されるべき権利である」。これは今を遡り1976年に条約化され150カ国が批准した社会権規約に示された条項だそうだ。食料を単なる商品とみなし国家を横断して天井知らずの利を追求する多国籍企業穀物メジャーと、自国の輸出を補助し輸出先の障壁を完全撤廃せしめんとするアメリカを主軸とした食糧輸出先進国の高圧的な姿勢。水も含めて同根の問題だ。
たぶん、アメリカが実現しようとした世界の先には破綻が待っているだろうが、当面は水も食料も何でもかんでも商品化し証券化して、目先の利を得たいという誘惑に世界は引っ張られ続けるのだろう。南を搾取し続けるという矛盾と同居しながら、べたべたと制度や政策をつぎはぎして、悩みつつも、酒を飲んだりテレビを見たり、恋をしたりで現実を忘れる時間をしっかり確保して。
……さてさて2つのオプティミズム。世界で実際に起こっていることを見ないクセをつける。何から何まで自分で完結するクセをつける。いずれにせよ今の僕に“権利”などを主張する資格もないが、いまさらのように世界の悲惨さに落ち込み、身近な出来事のかけがえなさに感じ入ってしまう。簡単に言って、これ以上壊されては困るのだ。まだ壊れていくんだヨとなると、守ることや新たにつくることをしなきゃなんないのだ。そうした側にいかなきゃなんなくなるのだ。

年頭の所感

何十万人もの人々を路頭に迷わせながらも、切った側の企業経営者の報酬は伸び、内部留保の総額は史上空前だそうだ。そんな非情が許される背景には、小泉政権時代の雇用に関する法改正があり、そのまた背景には、産業資本主義から金融資本主義への転換という情勢変化があったという。経営者は、顧客の利益や従業員の幸福を犠牲に、株価の上昇による短期の利益を望む投機的な株主の僕、になることで評価されるようになったという。内部留保も、買収からの防衛上程度必要致し方ないと、企業のサバイブのために人間が切り捨てられていくという構図。
カネがすべての世の中、ということだ。しかも相手は評価や格付け勝手に変え、国債とかで架空のカネをじゃぶじゃぶ作りまくっていた。
その架空のカネが、資源に襲いかかる。石油に始まり、バイオエタノールが食料の需給を逼迫させると穀物相場がウナギのぼりに急上昇した。上昇した価格に喜んだ農家は今や非遺伝子組み換えのプレミア価格を一顧だにしなくなり、ここ数年、アメリカの遺伝子組み換えトウモロコシの作付けが急拡大、途上国へも展開して輸入依存という新たな植民地化が進んでいる。人口の増加が今も進行中の途上国は食糧事情をより逼迫させるが、その人口を養うことの出来る新たな農地は少なく、あったとしても水資源の限界が叫ばれ、その水を巡って架空のカネが、またも暗躍している。
今一度国内に目を向ければ農業の高齢化。小農はその非効率から淘汰待ち。中核農家が生産性向上にシノギを削るも買い手市場、終わりない価格競争にさらされ、土地も雇用もがんじがらめで対応覚束ず。80年代に一旦は均衡を見せた都市と農村の所得格差もじわじわと後退しまた拡大一方、“働かない農民”がもうあきらめたと優良農地を耕作放棄、地価上昇の順番待ちを決め込んでいるそうな。
……そんなこんなを知り、悩んで、どんな意味があるのか。少々暗いですが、ここから出発。これから変化は激しいだろうが、なるたけ変化しにくいことに寄り添って、今年は立ち位置を整理しないといけない年、というか、自分の価値観はあまり変化がなさそうなので、今年みたいな年は、かえって世の中の出来事と比較しながら、自分の立ち位置をよりはっきりとできるのかなと、考え始めています。そのためには(背伸びじゃなくて)背筋をきちっと伸ばします。あ、忘れてた、
あけましておめでとうございます!

本質を見抜く力

あまり面白い本ではなかったが、書評ということで。BM技術協会『AQUA』新年1月号掲載予定です……

『本質を見抜く力』環境・食料・エネルギー 養老孟司 竹村公太郎

 対談集だ。養老氏の前書きには「自分が生きてきた時代、様々なイデオロギーに翻弄された」とある。その上で氏は五感を重視するか、概念を重視するか、の違いを指摘した上、五感すなわち知覚できる実感や事実、「ヒトから見たモノ、それで社会を論じたい」という。オビには「日本の将来を本気で考える」とあるから、どうしても「ご高説賜ります!」と読む前に力が入る。
 しかし構成が対話形式ゆえか、日本語特有の話法も手伝い否定肯定が不分明で、二人の立場の違いもわかりにくい。対話の流れは速く、もうちょっと知りたいと思っても、話は強制的に先に行ってしまう。総じて何となく飲み屋で放談中の知的オヤジにお付き合いさせられているような……。
 だからお酌でもするつもりで、あえてゆっくり読む。二人の知見を味読するのがいい。前書きには「モノという現実」から日本を見ようとする最初の試み、ともあって、今回はその最初のゲストとして竹村氏が招かれて話をした、と捉えてから読むことを勧めたい。そう読むと、ゲストが養老さんに何を理解して欲しいかがわかるのだ。
 今回のゲスト竹村氏は、東北大工学部土木工学科修士課程卒で元国土交通省河川局長。前に『aqua』の水に関する書評で触れた、世界水フォーラムの事務局長でもある。主張に通底しているのは国土の開発という立脚点か。
 竹村氏は、マスコミの煽りなども含めた通説や俗説を表面的な情報として、教えられた歴史の解釈も一旦は排す。その上で、日本国ではなく、日本列島という「モノ」としての資源や状況、実力、事実を「解剖」し、その本質を整理する。
 基層もしくは下部構造のことをインフラと呼ぶが、食料やエネルギーを語る場合のインフラとしての「国土」を量的質的に論じようとする観点には、養老さんの「モノの見方」との共振性が感じられる。
 が、国が国土をどのようにイジったかについての実践編となると疑問符もつく。100年前と今では日本列島の緑が濃いと国家事業を称えても広葉樹林の激減に触れなかったり、官僚という方々には、持論と国論の両立という隘路が見え隠れする。どうしてもマクロな整合性を求めてしまうように思えた。
 養老氏は言及しないが(例えば植林の成果について)、昆虫の生態系は100年では回復しないなど、あくまで自分の五感で情報を評価する態度を崩さない。

 さて、全体感としては、地球温暖化対策も、エネルギー問題も、食料も、世の対応や解釈、歴史認識に対して批判的な立場で話が進む。
 戦争は石油争奪が主因、主義主張の違いは表層で、資源のない日本という前提でのエネルギー利用に活路がある。温暖化はデメリットだけではない、日本列島が南北に長いメリットが生きる。日本は小さいことに価値を見出してきた。少子化も、大きくなるよりはるかにマシだ。日本のは水の国。水資源は足りているというモノサシで利用を組み立て直す。カロリーベースの自給率はまやかし、米も野菜もなんとかなる、問題は動物タンパクとしての水産資源だ…etc.
 そんななか、農業について論じた農業経済学の神門善久氏を交えての鼎談は異色だ。氏は、日本農業の可能性はとても大きいとしながら現状を憂い、「公明正大で公平なルールのもと最大限の自由を担保すべき」と論じる。その中心に農地、雇用、加えて日本の民主主義の問題を据えて、無秩序化が進んでいる今の農政を正面から糾弾する。
 鼎談ではその体系化された中身の入り口を垣間見るが、ぜひ氏の著書『日本の食と農』で、その本質を読み解いてほしい。

 今後このシリーズが続いて、養老さんの「ヒトから見たモノ、それで社会を論じたい」という「モノの見方」が、多方面の事実と結びつき体系化されていくことを期待したい。

本質を見抜く力―環境・食料・エネルギー (PHP新書 546)

本質を見抜く力―環境・食料・エネルギー (PHP新書 546)