困った困った

正月明けから再開したblog、やや元気なく始まったのは、やっぱり自分が“がっかり”しているからなのだろう。改めてその“がっかり”をテコに、いったい自分は何考えてるのか、ふらふらヨコ道にそれ易い自分を、ちょっと戒めつつ、少しは考えにホネを持たせたいものだよと、さすがにヤバいよと思ったからだと思う。

そんなコンディションで、じわっと自分を追い詰めている(そんな大げさではないが)のが、制度や法や政治、国際関係から論じられる“農”と、より理想的な暮らしを標榜する結論または過程としてかけがえのない“農”との距離感。その両方にそれぞれ意見してしまう自分の論拠の脆弱さ周辺の悩みだ。小難しい言い回しになっちゃっているが、状況的に、個人の自由を認める社会の容量がどんどん小さくなっている訳で、その現実をどうしても“後退”または“退化”としか思えない自分は、なんとか個人の自由、言い換えればそれぞれの豊かさを拡大することの大切さを、堂々と胸を張って論じたいアセりがあったりする。ってワケわかんないか。

なんで“論じ”なきゃなんないんだよ、と問われるとここでまたギクッとする。なぜならば論じることを停止して即、自由の実践に進んじゃえばいい、自分がしたいことをする権利を行使することもできるんだから。でも“論じ”たいのは、ちょっとだけの理由がある。それは衝動の一種かもしれない。世の中を席巻するポピュリズムに、気分的に負けたくない。“思考停止”といわれたくない意地。ということでまあ、自縄自縛に陥っているというのが今の僕の正直な心境だ。hold on!

赤い色(緑色でも可)に染まった人たちの集団があれば、より赤い色を放つヤツがいて、赤い色が薄いヤツもいるのに、全員で赤いサングラスしちゃったようなもんで、皆サングラス色に染まろうと行動する。より赤ければ分裂し、といった価値観は流行らないのだろう、美人コンテストに投票するのではなく、優勝者を言いあてるレース。個々の実質を問題としない虚のカラクリは露呈したのだから、ね?

……関係するかどうか、もちょっと自分の生活周辺ネタも意識して描いて行きたいな。おととい11日は寒い寒い満月だった。女房子どもと畑に行く。放りっぱなしの一角に寒さでちぢこまったホウレンソウ、小かぶ、ブロッコリーの花たち、菜花が採り放題。休日料理は東坡肉(トンポーロー)。お世話になってる玲舫さんの「中華のツボ!玲舫’sぶろく」最高ですな。おいしい。年末の大掃除で捨てられずにいた粗大ゴミ(籐椅子、デッキチェア、穴だらけのフトン、壊れたCDデッキなどなど)を車で処分場に。おかげですこし広くなりました。

めざせ脱却! 東坡肉のようにコトコトと実質を煮詰めていこう。