帝国とその彼方…ネグリ本2冊

buonpaese2010-04-27





ネグリ講演集
<帝国>とその彼方・<帝国>的ポスト近代の政治哲学 を読んだ。
とても難しく、220ページほどの文庫上下巻2冊をツーキン電車の行き帰り何度も読み返しては1ヶ月もかかってしまった。結論は、素養の不足ゆえ(わからない用語多し、ヨーロッパ近現代の歴史背景知らずほか多数)、言い回しのややこしさゆえ、決して理解したとは言うまい。ただ、2冊を通してこれでもかと同じ用語が反復され、いろんな脈絡を横断して現れてくれるので、おぼろげながらの大枠が見えたような。一冊目の感想?から……
まず、現代の世界に対する認識について。それは君主的な国民国家の権力と、貴族的な多国籍企業の支配によって覆いつくされていること。権力を備える国民国家と、多国籍企業が代表するグローバル資本主義がせめぎ合いもたれ合いして、その中にひよわな民主主義が見え隠れして、見えない管理が完成した、と位置づける。それをポスト近代、ポスト国民国家として立ち現れた<帝国>と呼ぶのだ。
この点多分に心当たり思い当たるフシあり、やっぱそーだったんだと膝を打つボク。生身の生が抑圧され馴化されながらも、理想や動機すらも与えられた中から選択するしかない姿、映画マトリックスが表現した世界もちらつくし、その一方説明のつかない困惑と憤りに満ちた精神のやり場のなさが、注意深く眺めればそこかしこに沈潜している可能性も、なんとなくの心当たりによって腑に落ちる。
次に、実はその沈潜は、古い過去から連綿と消えることのない人類の渇望のようなもので、これを潜勢力(潜んでいる勢力?)と呼ぶようだ。権力と支配の歴史が続く中で、<帝国>に連なる支配者に抗いつつ、こつこつと自由の領域を獲得してきたのも潜勢力であり、今もそれは絶対消えないという。ばかりか、2000年以降急速に進んだグローバル資本主義の完成の過程は、たとえばインターネットが象徴するような各種のテクノロジーや、世界標準としての人権の質の拡大なども併呑していかなければ、その潜勢力が及ぶ領域位相も拡大させなければ、グローバル資本主義における権力と支配、見えざる管理の構造そのものも完成を見なかったという逆説的な状況を生み出した。権力と支配はそれそのもの単独では生きることができない、いわば寄生的な存在であることは今昔同じということか。
このような状況下、やむにやまれぬ憤りによっても、この逆説的状況を賢く察知することによっても、その他どののような入り口、契機からでも、近代的な武力ではない、知的な情動的なコミュニケーション的なサービス的な(だんだんわからんくなってきた)潜勢力(これをマルチチュードと呼ぶ)が、対抗<帝国>としてのマルチチュードが、虎視眈々を機会を伺う、態勢を整える、そんな情況が急速に現出してきたのだという。
……う〜んマルチチュードか。そっかそうだったのね、ボクはマルチチュードなのかなそうじゃないのかななど考えつつ、ネグリはボクを、こうした言説が具体的にどんなふうにしてボクの生き方に関係してくるのかとの新しい問いを発しなければならないような、そんな状況にですね〜、追い込んだ。
他方、とてもヨーロッパ的で東洋など到底結びつきそうもない、確信的な言葉遣いもの言いとか、どうもアジられているような、父性的で実はネグリの言ってることの対極にある権威的そそのかしの雰囲気とかが感じられもし、いささか萎縮しもする。気になった記述をいくつか引用しておく……

−<帝国>というのは、グローバル市場における主権の構成の過程。主権というのは、命令するものと服従する者との関係。資本もまた、搾取する者と搾取される者との関係。
−近代ヨーロッパの伝統においては、近代と民主主義という二つの概念が衝突
−いつも敗北を喫しながらも、そのたびにいつも復活してきたもうひとつの考え方が「絶対的民主主義」という考え方
−<帝国>というのは、君主政体と貴族政体と民主政体が一体化したもの
−本来なら、インターナショナリズムとコスモポリタニズムの名において、この古い世界をひっくり返し、新しい世界を創造する力量を称揚することによって、その新自由主義的な形態と目的の転覆を可能にするような革命的展望が、そこに貫かれていてもおかしくはない
世界市民権が、必要な道程
世界市民権は、反資本主義の主要な要素
−政治的な自由への情熱と社会的平等への愛、権力にたいする抵抗と貧困にたいする反乱
−統一されたヨーロッパなしに希望がない
−<帝国>的主権を分散ネットワークの一形態とみなす
−支配的な国民国家、巨大多国籍資本、超国家的諸制度、その他のグローバルな諸権力は、<帝国>的主権のネットワーク内部の結節点以外の何ものでもありません。そして、それらの結節点は、さまざまに組み合わされて、さまざまな瞬間に一体となって機能するでしょう
−<帝国>のネットワーク構造がどれほど世界市場の要求やグローバル資本の生産サイクルの要求と完全に合致しているかは明白である
−<帝国>は新自由主義的なグローバル経済体制に最も適合的な政治形態として出現している
−農業従事者は、つねに非物質的労働の知識や知恵や発明を利用してきました
−農業は科学でもあるのです。農民はだれでも、土地とそれにふさわしい種子を結びつけ、果実を酒に、乳をチーズに変える化学者なのです。農民はだれでも、植物の品種改良のために最も適した種子を選び出す遺伝学者であり、日々の天気を観察する気象学者なのです
−自然の予測不可能な変化とともに推移する、農業に典型的なこの種の開かれた科学は、工場の機械的諸科学の諸類型よりも、非物質的労働の中心をなす知識の諸類型を示しています
−農業形態のポストフォーディズム的形態
−非物質的労働のヘゲモニーは−労働の自律的組織化のための新しい基礎を提供している
−労働する主体の手に完全に握られている
−工場労働者と農民とのあいだの差異、都市と農村とのあいだの差異、知的労働と肉体的労働とのあいだの差異という三大差異
−男と女とのあいだの序列、人種集団間の序列、世界のさまざまな地域間の序列等々のような他の多くの序列を廃絶するための闘争と同様に、現在もなおきわめて重要である
−カウンターインサージェンシィ
−新たなコミュニスト宣言
−コスモポリタニズム、国境線の廃絶、ヨーロッパの創設

……第一冊目で印象に残ったのは、コスモポリタニズムとか、農業にきわめて好意的な解釈を与えているところ、そしてヨーロッパへの愛情、絶対的民主主義の完成への希求。ネグリという人そのものは、明晰で表現力豊かで、常に暴力と近接しているような、前線的な暗さと、理想への激情的な明るさが共存していて、とてもじゃないがお友達にはなりたくないのだが、確かに考えに入れなきゃ、の論点なので、消化不良致し方なしとてここはゴックン飲み込んでみた、という感じでとりあえず一旦締めくくるとします?

アントニオ・ネグリ講演集〈上〉“帝国”とその彼方 (ちくま学芸文庫)

アントニオ・ネグリ講演集〈上〉“帝国”とその彼方 (ちくま学芸文庫)