食に主体的に関わる

種子島浦部誠んちのトビウオ







ついついモノゴトを難しく考えてしまうクセはご勘弁。おいしい村と銘打ちかれこれ4年目?になるこのblog、更新もたいしてせずここまで来たけれど、ずっと頭ん中巡り結論出ないのは、「おいしい村っていったい何のこと言ってんのかちうコト。おいおい今さら……そのヒントのひとつは「食に主体的に関わる」といキーワードなのかなと思ったのが今日。たどり着いた経緯はごめんネグちゃんちうことになりますが、その説明は割愛し、直球で「主体的て何よ?」への答弁を試みたい。
まずは経験的なあれこれから。ボクのシゴト先、食べ物を販売している。大体20年ぐらいいるのだけど、やはり20年もすれば変化はあった。だんだんの変化がだんだん確定的になり、変化した確定的なことがまただんだんと変化。節目での組織改革とか方針変更なども当然経るが、良い方向への変化なのか必ず(大体は保守的と言われる)抵抗が生まれ必ず何人かが去っていく。抵抗感の方は最初強くその後緩やかに馴化しを繰り返しながら今に至るという図式はどんな職業、どんな取り組みでもさらされていると思うし、その連続が歴史だったりもする。そのだんだんの変化ゆえ、参加した個人の動機そのものも不明瞭になる傾向もあって、反比例して組織の動機は強まっていく傾向。動機が組織に補填されていく。同時に歴史も組織の動機から解釈され改変されていき、なんとなくビミョーって感じで個人の解釈とのズレも生まれ、至っては主体性の喪失へとコトが進んでいく。
世の中文字が発明され様々な出来事が記述されて以降も、現在に至りまぜっかえしてあーだったこーだったと様々な解釈が乱舞する脈絡も見えてくる。人類がいくら経験を積み重ねてその先端にボクらがいるのだとしても、それがあるから、またその経験のブループリントを個人の経験にまんま移し入れるのも不可能だ。個人の主体性はまず個人から出発しないと。たぶんラディカルな個人そしてそこから出発する組織的ではない集合って言えばいいのか。
また、心当たりはないだろうか、最近その経験なるものがどんどん退行してる感じがする瞬間に。退行だよ。たとえば人と話す。さすがに人生何十年も生きてきて、えっ?そんなこと知らないん?とう人に、最近は珍しくもなくブチあたることないですか?で、おいそれは常識じゃんと返しても逆にそんなことフツー知らないもんだ、知ってるアンタはオタクか?なんて言われそうな表情が返ってきたりして……。でこのパターン感じると事前にその感情はしまいこむクセがついた。そのほうが無難であるし、そのことその常識が、さしあたってその相手との関係では導入されずとも世の中は回るからねと。思わず口すべらせてヤバイと感じたとたん会話を先回り「オレ、オタクだからなぁ」なんて言い訳したりしたこともあったりする。
知らないこと前提で成立する会話。裏返すと互いが知らないどこか何か薄氷のようなまたはどーでもいーよーな共有事項のみを探索しながらその道はずさず、はずされんよう気をつける会話。その前提のみで構築される世界システム?自分にフィットする世界をつくるんでなく恐る恐る自分をフィットさせつながる世界。ああ今日も無事はずされんかった、ホッと一息の一日が数十万日続くその世界の退行。みんなは変化にとても敏感。変化にチョー敏感。でも変化の結果は気にも留めない。誰かに強制されるんじゃなくて、自分で自分を強制する、矯正修行するフーコー的からくり世界。変化自体はいいんだけど、現代は、これまでの「変化への認識」からの想像範囲を逸脱し、加速度的にその結果に対して無責任になってきている気がする。どんな自由を守るために?なんでこうなった?どうも個人と組織を埋めているようでいて実際は埋めていない空隙が作動しているような、それが作動を開始したのが現代の異常性というか、その原理……いや話それたごめん直球で行こう。

主体的、というのは、経験や歴史をふまえて、個人がそのことへの考えを持つということなのかと思う。人と人が主体的に関わりあうというのは、その経験や歴史を付け合せることなのかと思う。その上で何かを共有したり、共に生み出して、より良い何かがつくられる、またはつくられない関係性が生まれる、せめぎあうのだと思う。そしてボクの場合は、食について主体的に関わりたいのだ。
シゴトのことに少し触れると、これもよくある話とは思うのだが、目的はその「主体性の復権」にあったのかと振り返ることができるし、その目的のための方法がだんだんと目的化して、出発時の目的が遠のき、最近ではその目的が話されることもなければ、ボク自身忘れてしまっていることが多くなったとも言えた。食べ物の販売だから、その主体的、はつくる人食べる人ぜんぶが主体的でありうる何か、をこそボクは求めてきたはずだが、もう最近のクセであるが、生産者消費者とか、規格基準価格量目。いやはやその中でどうしたもんだかと悩みつつでも過ぎていく時間に身を任せてのんのんしてきた反面の何かの空隙が「おいしい村」書き始めた動機であったのかと思う。
そう、主体的に食に関わること、それはこれまでの経験や歴史のその先を求めることでしかなく、その逆経験や歴史を捨象することでは、決してないのだ。食を通じてこうなっていったらいいナという思いは、当然だ、捨象されてはいけない。ボクはシゴトの延長上のことを、シゴト上ではなく、既にそれとは別に、求め続け始めてているということになる。経験的には。
それと、オルタナティブということ。やはり20世紀後半から現在までのこの時代は、歴史の全体からみて異常といっていい。だから求めるオルタナティブは、歴史の全体からみて異常ではないフツーの何か。ボクはそれを多分求めている。未来を見通そうとするときに、これまでのシステムの使い勝手がどんどん良くなりフツーになり、当たり前になって空気のようになった上にその先がある、とする未来志向も嫌いではないが、ま逆に元に戻してもいいんではないか、現代は相当なスケールの砂上の楼閣が構築機能し、ボクたちはやっぱ管理されてるんではないか。無批判に全てが未来に至るわけでなし、常に取捨選択を迫られるその瞬間瞬間に、経験に照らした底堅い普遍とものを求めるのがいいんではないか。そんなオルタナティブを、せっかくだから食というテーマから見つけていきたい。だって食はそうとうに、無残かもしれない感じで変化した。肯定的な変化を在野の知から見出すのは困難だからたぶんそうとうに無残な気がする。一方で確実に、自分たちが選び取れば、自分たちが進んで(主体的に)見出そうとすれば、ありえないほどのおいしさや出会いに溢れてもいる。誰でもがたどり着ける。ありえないてことってなかなかないゾ。それは多分、食という領域の通時性共時性に関係しているのだと思う。そこから全部が見えちゃうわかっちゃうかもしれない。人種宗教言語地域歴史観の違いをよゆうで超える、食から出発できる、食がいろんな出来事の終着的な定点でもあると言えそこから生が生まれ継がれる原点的定点でもあると言える。
そして食は大切だ。そんなことが明らかになっていけばいい。いや悪いクセ。