年老いたヨーロッパの哲学

buonpaese2010-05-13






ネグリ『<帝国>とその彼方』の下巻、『<帝国>的ポスト近代の政治哲学』から、気になる2編のうち「年老いたヨーロッパの哲学」という講演録の「ことば」を抜粋し、勝手に切り貼りしてつなげてみた。もわかりにくいと思っていた話が、ネグリの見るヨーロッパという塊の動的平衡の解釈として、わかるような気がした。感想は、ヨーロッパ中心的だナァ。思想を共有する文法の基本部分が、ぼくら東洋人が必死こいて勉強しないと使いこなせないような前提になってる気がするナァ。しかし現代の動きや状況は、ネグリの示すところの<帝国>的状況を物語っているという点で納得できるので、やっぱちゃんと知っとこうと思うんだナァ。だって日本にどんどん押し寄せてるから、っていうところです……

古いヨーロッパの弁護をしたい、ヨーロッパの理念を守りたい。共和政のヨーロッパ、自分たちが土地の境界線によって分かたれているという宿命をけっして受け入れようとしないヨーロッパの伝統、いつも限界にまで到達してはそれを乗り越えなければならないこのヨーロッパ、いつも虚空に身をさらしているこのヨーロッパ、これこそわたしたちが愛するヨーロッパなのです。

わたしたちはヨーロッパをとりわけ何よりもまず共和政として定義することができる、精神の共和政、連帯の共和政として定義することができる。ヨーロッパ共和政の始原神話が存在する。合意形成を目的として、ともに生きるために、自由と連帯をふたたび統一させるために、もろもろの単独的存在が抗争しあっている共和政。

年老いたヨーロッパにおけるこの共和政の理念が包摂する二つの要素は、第一には自由の主張、第二には協働と連帯です。権力と主権の理論は一者による運営ということにもとづいて生まれたが、それなしには社会が不可能になってしまう真の政治形式は、もろもろの単独的存在の多数性を含み、その実質的形式を構成するのはマルチチュードなのです。わたしたちの生は、共に実存することのこの本源的な図式の持続的な探求以外の何ものでもないのです。スピノザにおいては存在は自らを憲法へと構成していこうとする潜勢力。潜勢力は、もろもろの主体が協働するなかにあっての自由と連帯を表現しようとしたもの。
権力の統一性なるものは、現象学の観点から見ても、虚偽なのです。この統一性は、今日社会を構成している諸条件の総体のもとでは、もはや経験不可能なこと、ましてや理論化などできないからです。別の事柄が主張されているのです。主張されているのは、自由と連帯の新しい消去しようにも消去しえない願望なのです。

現在、資本主義の発展が熾烈で全面的なものであった、資本の支配のもとに包摂されてしまった、存在するのは交換価値だけである、人びとの行為は全面的に疎外されてしまっている、このことは明らかなことです。しかし、まさに大問題なのは、どのようにすればオルターナティヴや切断や裂け目を再導入できるのか、を理解することなのです。そして、たえず開かれていながらも、しかしまた限定されることを必要としている、主体性の生産なのです。

これこそは年老いたヨーロッパ、人文主義のヨーロッパ、プロテスタント改革のヨーロッパ、階級闘争のヨーロッパ、民衆によって体験されたコミュニズムのヨーロッパ、生の地平において善きものとして存在するすべてのものを提起してきたヨーロッパ。カントが言ったように、人間は<善>を願望することができるという理念を発明してきたヨーロッパなのです。

アントニオ・ネグリ講演集〈下〉“帝国”的ポスト近代の政治哲学 (ちくま学芸文庫)

アントニオ・ネグリ講演集〈下〉“帝国”的ポスト近代の政治哲学 (ちくま学芸文庫)