畑は海である

ずいぶん昔、「稲穂は海」というような表現に出合ったことがあった。
たわむ稲穂が風になびいて、波の幾何学模様を描くそのさまに、ああなんて田んぼはすばらしいんだろうと、たしか30歳のころ、感動したこともあった。その記憶から、旅は野道を歩くのがいいと、一人勝手に“野道ウォーキング”なる言葉をつくって、休みの日には(当時千葉県に住んでいたのだが)房総半島周辺の畑を歩き回ったこともあった。
そして最近、切り口は全く違うが、このイメージを思い出すことになった2つの話を聞き、読む機会を得た。話のほうは小松さんという方の水産資源がらみの話、本のほうは神門(ごうど)さんという農業経済学者の『日本の食と農』という本だった。
日本の漁業はオリンピック操業といわれ、よ〜いどんで資源が枯れるまで競争してしまうから持続性がない、ヨーロッパの漁業は、まず先に水産資源はその国民共有財産であるとみなしたうえで、漁業者に操業権とその適正で持続的な管理の責務を課す。小松さんは、資源管理型漁業といって、海は無限ではないという前提から、海を畑になぞらえて話しをされていた。
ところが神門さんの本は、その当の畑、農業の問題を厳しく糾弾していた。神門さんの主張は乱暴な要約をするとまず、農業者、農地、農協、制度などの構造的な問題の顕在化を明らかにする。別の本で「僕は既得権益とか不労所得というものを徹底的に嫌う」というような発言をしていた神門さんは、中山間地の高齢化などが耕作放棄の拡大の主要因といった説はまやかし、放棄地のほとんどが、自分の農地が巨額の財産に化けることを期待して、耕さないまま放置している優良農地である現状を嘆く。農地というものが、あたかも先祖伝来、その当地を所有している農家の私的な財産だとする考えは間違っている、農地は農地法に定められた条件のもとで審査されてはじめて取得が許されるもので、本来は国民共有の財産であればこそ許された特別な所有権……。
この農地の話から僕が「畑は海である」という連想をしたのは、神門さんが農地というものをこの上なく真剣に、(言い方は陳腐だが)愛しているのかなと感じたからだ。
専門的な指摘や状況分析は僕のシゴトとも関わりのある部分で、説明すると長くなるので、というか力が入ってしまうので省くが、悩ましく苦々しい農政という現実からこつこつ紐解く神門さんの論点から浮んできたのは、畑を耕す人が、汗をしてひたむきに土に向き合い働く姿だ。働かない土地持ち非農家がいない農地。その場所から、海のようにみんなから愛され、作物がそよぎ流れる畑が広がる情景が浮び出てきたのだ。とても素朴に、難しく考えなければ、畑も豊穣の海なのである。涙することのできる風景なのである。
耕すことで無から有を生み、国民のかけがえのない食を保障する農地というものは、国民のみんなから愛されて、その信託を受けて、農業者に預けられている。と考えると、少なくとも農業者は、土地転がしなんぞ考える不純な輩であってはならない! その信託に誇りを持って応えたい、という社会的な責任感と生きがいを持つ人から選抜されるべきだ。少なくとも全耕地面積の半分ぐらいはないと信頼されないんじゃないか。WTO規制緩和だと騒ぎ、同時に自給率50%など矛盾を抱え込んでいる今の日本で、その内実が土地転がしの耕作放棄となれば、国はどんな説得力も生むことが出来ずに総崩れ、この食料争奪の時代に、働かない農民が増えて自給も出来ず、かといって外国からも売ってもらえない総崩れの状況になっちゃうんじゃないか。
(こう考えるとその先には個人またはコミュニティ単位での自衛または自給という考えにも思い至るが)
……さてこの純然たる発想、いささか原理的なので、残り半分の半分は中山間地のサンクチュアリ的な場所や、企業参入も土地ころがし何でもありの場所とか、世捨て人救済瞑想異空間とかたくさん実験すればいい。僕はその他の場所にいつか瞑想の場所ほしい……