大潟…信太惇吉くん

buonpaese2007-07-16

 7月初旬、秋田大潟村に行った。米作りをしているグループの田んぼを回る。大潟村は戦後の干拓事業で生まれた新しい村で、もとは八郎湖、八郎潟と呼ばれる湖だったそうだ。面積は琵琶湖に次ぎ2番目、霞ヶ浦より大きかったそうで、日本海に接する汽水湖としてその生物資源はさぞ豊かだったことだろう。汽水域の豊かさについては最近集中して呼んでいる東北の牡蠣漁家、畠山重篤さんの本から学ぶことが多く、別途書きたいのだが、今回は別の話だ。
 意外と思うが日本の米は70年代までは不足していて、常に輸入に頼っていた。これを解消するために農薬化学肥料や大規模化機械化が狂ったように進められた。その大規模化の一環として、北海道、東北、そして各地の高原地帯の農地が開拓されていった。昭和の開拓。戦後の引き揚げ者の受け皿になったとか、多くは農家の次男三男が農地を求めていったと言われている。

 開拓といえば酪農や畜産の産地回りをしていたころ、北海道の積丹日本短角種という牛を飼っている方々が、オレらは元は漁師だったが、陸(おか)に上がったのだという話を聴いたことがある。積丹近辺は明治に盛んだったニシンの好漁場で、積丹沖で漁をしていた漁師たちの出作り小屋というか、滞在場所として、漁期となる夏に住み込んで漁をし、小樽の市場に運ぶ季節労働の場だったのが、いろいろあって定住の場になっていったそうだ。積丹の人たちは、もとは新潟とか、日本海側各地の出身者が多いが、漁業、畑作、酪農、人によっては商売を始めたりと定着の姿も様々、明治からだんだんに集落が形作られていったという流れがある。

 これに対し大潟村は、かなり人工的に生まれた村だ。50年代に国策事業で入植者を募集し、農地も住居も国が用意し、よういどんで開拓が始まった。米の増産のために生まれた村だから、職業も当然全員が米農家。希望者が多かったことから、抽選というか、厳格な審査に合格した、優秀な技術を持った米農家の集団として、米の自給達成という“国の悲願”とともに鳴り物入りで出発した。しかし皮肉にも、米の自給は70年代中ごろに達成され、ここ大潟村干拓と入植が完了するのは開拓開始から長途70年代後半。とたんに国は減反政策を開始することになる。この歴史的な悪政が30年以上も続き、それでも大潟村には桜の樹が美しく育ち、ここで生まれた大潟村二世が、たくましく育っていた。