宮沢賢治

 ここ2、3日で『風の男 白洲次郎』という本を読んだ。ケンブリッジに学び、政財界に知遇あるも一貫して官職、政治への道を拒み、戦中は百姓をやり、戦後吉田茂首相に請われ日本国憲法の制定に日米間を奔走した。プリンシプルを尊ぶ紳士……。
 最近徳とか倫理とか、こうあるべきとか、潔いこととか、矜持とかの言葉が気になっており、そんな流れで昔読んだ本を読み返したのだが、う〜ん僕にはマネできない人だなぁと憧れに近い感想を抱いて頁を閉じた。まあ、この人の話は話として、またいずれ書きたいとは思うのだが、結論から言うとお金持ちの世界の話なのだがしかし昔の金持ちの中には人徳というか、すばらしい人もいるものだ、と単純に感心した。翻って自分はダメだなぁ、何してるんだろうと自己嫌悪に陥ることしきり。
 ところが偶然、とあるblogから宮沢賢治の名前が飛び込んだ。そして今あらためて心に染み込み始めている。

 春 (作品第七〇九番)
 陽が照って鳥が鳴き
 あちこちの楢の林も
 けむるとき
 ぎちぎちと鳴る汚い掌を
 おれはこれからもつことになる

 1926年、賢治は農学校の教師を辞し、花巻郊外で自炊の百姓生活を始めた、すなわち羅須地人協会を発足させた年の、たぶんその年の春に書いた詩だろう。読み起こすと全く心に染みる。それは常人としての苦しさとか、驕慢とか、雲の上ではない場所での出来事のように思えるからか。それが人間的だからか。戦時において民主主義はかくあるべしと敢然紳士然と、肩で風を切って歩くようなかっこよさは微塵もないが、人間的を昇華させることで業とか性とかの類を燃やしきってしまうような、強い生命力を感じるのだ。詩人草野新平が、賢治の詩をこう評している……

徳性のない人間と獣の間のもの(修羅)として自らを意識する賢治の苦悩にみちた内部心象

 修羅とは『春と修羅』の修羅であり、賢治は詩の中で自分を修羅と位置付けている。心象とは、賢治が自分の詩を“詩”と呼ばず“心象スケッチ”と呼んだところの心象。
 明治末期から大正、昭和ひとケタの時代、どんな風が吹いていたのだろうか。現代はどんな雲や霧が、人間を曇らせているのだろうか、その雲や霧とともに、僕らはどのような矜持を心に備えることが出来るのだろうか。

風の男 白洲次郎 (新潮文庫)

風の男 白洲次郎 (新潮文庫)

宮沢賢治詩集 (岩波文庫)

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