千年働いてきました

 やっとBM協会機関紙『aqua』の書評が書けた……

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 日本は“老舗”の製造業が際立って多い国だそうだ。海外、とりわけアジアに詳しい著者は華僑、印僑に代表される“商人のアジア”との対照から、日本を“職人のアジア”と位置づけ、日本の老舗製造業の本質を探る。取材先は創業百年以上の日本の製造業二十一社。財閥系のグループ企業や老舗の和菓子屋、料理店などは含まれない……。

 彼らは百年を“どのように”ではなく“何によって”生き残ってきたか。
 対象となった企業は、モノづくりにおいて人であれ仕組みであれ、その独自性を磨き、掘り下げてきた。そこにはモノづくりの技術が、技術そのものをも進化させ、したたかに、柔軟に育っていた。
「五感でしかわからない世界をなくそうとしているのは、非常に危険」「アナログの世界に特化していこう」「どんなに進歩しても最後の1パーセントは職人の世界」
……例えば、このように発言する老舗企業のそれぞれが、モノづくりにおいて世界でトップのシェアを誇っていたりする。プロジェクトXのようではあるが、ドラマ仕立てではない。デジタルを単純に否定するような話でもなく、切実であり、冷静に技術を極めていく話だ。
 対するに現代の企業はマニュアル化が全盛と言われる。インターネットが象徴する情報化社会、HACCPやISO、ひいてはWTOが示す標準化の価値観が席巻している。規則どおりを求め、分類され数値化された情報を求め、そこに規格という容れ物を生み出すことで、全体として“ある程度”満足できる世界が生まれるはずだ、それは“善”である、との合意が形成されているようだ。このような合意に、つくり手側も翻弄されていく。
 しかし読み進むと、こうした世の動きが、どうも表層的なことのように思えてくる。規則、数値、規格というものが、既知の価値に対し割り振られるのに対し、モノづくりというものは、未知の価値を生み出す技術の総体を指すのではないか、と考えたくなるのだ。
 既知の需要は必ず他の誰かが担う。規格化された社会は“ある程度”の満足で充たされていて、それを制度が保障する。であれば老舗企業は生き残らなかったはずだ。既知の価値は企業の“個”ではなく“群”で生き残るからだ。
 ならばモノづくりにおける技術の未知、または基層とは何か。小なりとはいえ、現代を生きる日本の老舗製造業が、百年をどのようにではなく、何によって生き残ってきたのか。
 発見は偶然の賜物である場合が多いと聞くが、偶然から再現性を獲得する営みを技術とするならば、その偶然の母体は時間。短期の成果ではなく、長期の継続、発見の継承が、未知の新しい技術を生み出し、未完の技術を補完していく。仮に道具立てが揃っているなら、足下の秘密が意外やあるはずだ。
 この意味で、話の底流をなすのは百年単位の“時間”である。
 モノづくりの基層は、百年の単位において見出され、その百年を引き受ける“つくり手の聖域”においてこそ育まれるのではないか? 時間を軸に、精神ではなく技術で日本を誇る話。聖域は存在するという話だ。