プラトモナスという風景

 今日、テレビでスペインの画家ホワン・ミロのことをやっていた。見ていて懐かしく重い、押入れの奥の奥にしまいこんであった美術全集を引っ張り出した。重くほこりをかぶった全25巻の表紙それぞれには油絵の具の跡が残り、引越しのたび捨てようかと思っても捨てられずに抱え込んできたものだ。と同時に、別の数十冊の本も出てきて、なくしたと思っていたものばかり。中でも内山節さんの『山里紀行?』がことのほか嬉しかった。何度か買い直そうかと思ったりしていたが、その度に「縁がなったのかもしれない」とも思い、あきらめていたのだ。そしてこの再会。中でも、内山さんが旅の途中で出会ったギリシャプラトモナスという村の風景の描写に惹かれていた。久しぶりにその頁を開くと、控えめに折り目が残してあった。縁を確認する意味で少し長いが引用する……

 朝八時になるとエーゲ海には一艘の小舟が浮ぶ。小舟というより公園のボートといった方がよいその舟は、ふだんは漁師の家の前の浜につながれている。毎朝その時間になると妻を舟の上に乗せて、夫が沖へと舟を押していく。膝が水に濡れるところまでくると夫は舟にとび乗り、ちょうど公園のボートを漕ぐように沖へと漕ぎ出していく。舟の上には人形のように座っている妻の姿がみえている。
 私は毎朝浜で朝食のパンを食べながらその光景をみていた。一キロほど沖に漕ぎ出すと漕ぎ手がかわる。わずか五分ぐらいの時間だ。最後に網から伸びた綱が舟の後尾にしっかりと結ばれる。
 また漕ぎ手がかわった。夫は海辺の位置キロ沖を、岸と平行に、真一文字に全速力で舟を走らせている。体中からきっと汗をふきだしていることだろう。エーゲ海の青い海と青井空の境界線近くに、一本の筋が伸びていく。
 一キロも漕いだだろうか、舟の速度が落ちた。舟は向きをかえて、ゆっくり岸に近づきはじめた。そんなとき私はよく砂浜を走って舟が浜に着くのを待った。浜辺にのり上げるまで、海のなかにとび降りた夫が舟を押してくる。舟が浜に上がり、その後からは網が上がってくる。夫は舟に結ばれた網をはずし、網を背中にしょい上げる。そして浜辺のすぐ前の家へと入っていく。
 その家が村の魚屋だった。魚屋の店先に網が降ろされ、なかから海老やスズキや……、何百匹かの魚が降ろされる。夫はからになった網を持って、妻の待つ小舟に戻る。また海に舟を浮べ、一仕事終えた満足感をただよわせながら自分の家へと帰っていく。

 風景の記憶とでも呼ぶか。このほか懐かしい再会を果たした本たちは『自然と労働』(内山節)『聖老人』(山尾三省)『モモ』(ミヒャエルエンデ)『旅をする木』(星野道夫)『ココペリ』(ナナオサカキ)『サタワル島へ、星の歌』(ケネスブラウワー)など、どれもある種の“眼に映る風景”を備えているような本たち。偶然とはいえ、絵で頭の中、心の中をいっぱいに満たしていた頃の風景も、懐かしい美術全集の中に辿ることができる。これらは個人的な風景だが、人間共通の“風景の記憶”というものがあるなら、それはおいしい村の大切な要素であるべきだろうと思うのだ。

モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語 (岩波少年少女の本 37)旅をする木 (文春文庫)