境界の位置

buonpaese2009-01-26










23日から3日間は北海道にいた。1日目、札幌は予想に反して雨、なま暖かい風。道の脇の之は溶けていた。カメラ壊れる。というか写真撮ろうとしたら電源入らず。どういじったらいいかなど分かるはずもなく、空しく電源ボタンを押し続け、イライラ30分もサルのように繰り返す。情けなし。あきらめるしかないのであった。心の解決策は“忘れること”。僕はデジカメなど持って来てはいなかった、何かを撮ろうとは考えてこなかった…。道具に頼るときは、それが無くなっても困らない心持も備えて頼ろう。おお、数々の社会システムも。と、そうなるといったい自分には“それが無いと困る”ものが何なのか、境界をしっかりつかまえておかなくちゃなんないな。
その上で、“それが無いと困る”ことがないように、“それ”を守るために動くのか、“それ”がしっかりあると前提して“それが無くなっても困らない”、様々を頼る範囲を拡大すべく動くのか。丸山眞男系1冊目、苅部直丸山眞男リベラリストの肖像』……

国家やさまざまな組織の「内側」に属し、その内部だけに浸透するイデオロギーや「常識」によって、世界を見る目がはじめから一定の「イメージ」の眼鏡をかぶせられている…人間に残されている道は、あくまでも「内側」にとどまっていることを自覚しながら、外との「境界」の上に立ちつづけることである−「境界に住むことの意味は、内側の住人と「実感」を頒ち合いながら、しかも不断に「外」との交通を保ち、内側のイメージの自己累積による固定化をたえず積極的につきくずすことにある

……だそうだ。文中に庄司薫氏の『赤頭巾ちゃん気をつけて』からの引用、知性について……

知性というものは、すごく自由でしなやかで、どこまでもどこまでものびやかに豊かに広がっていくもので、そしてとんだりはねたり突進したり立ち止まったり、でも結局はなにか大きなやさしさみなたいなもの、そしてそのやさしさを支える限りない強さみたいなものを目指していくものじゃないか

う〜ん。やっぱりカメラ壊れても涼しげな心持でいられるようにしよう。そんな境界の位置にいることが大事。
北海道から戻り1日お休み。本を7冊買う。憲法関連。う〜ん。どうしてこの方向に行くかなぁ。理由の1点は僕が整理したい90年代00年代。この20年の流れをしっかり把握すること。もひとつ、“良い”とされるどのような制度であれ、世論であれ、醸成されていく常識であれ、理由であれ、把握され管理の対象を拡大していくことへの反論の余地さがし。自由権って何?っていうか、世の中には放っておくべきものがあるんじゃないかという漠然とした逃げ道探し。
きっと今の社会は自分などには十分すぎるキャパシティを備えているのだと思う。だから分不相応な思いを抱く訳ではない。個人が、生まれてから死ぬまでに獲得できる“知”と、人間社会が生まれてから現在までに獲得してきた“知”があって、区別がつかない自分。自分が何を思って、何を行動することが喜びなのか、知りたい〜んです。

丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)

丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)