自由主義者

buonpaese2009-02-03

時々blogを読ませてもらっている池田信夫さんが書いた『ハイエク−知識社会の自由主義』を読んだ。本の中では妥当としているが、ハイエク自由主義者と呼ぶのかどうか、難しいのでわからず。評価もなかなか難しく、とりあえずふ〜んなるほど、とマーカーで線引いた部分を抜粋しておく。感想はまたどこかで…




不完全な知識しかもたないがゆえに不確実性をともなう個人の行動をコーディネイトするしくみとして市場をとらえた
人は行動のもっとも直接的な結果以外には、基本的にはごく曖昧な見通ししかもっていない
知識人が左翼的なのは、世界的な傾向
社会主義者にとっては、「中央集権的な計画化と統制のもとに、世界を大きな組織体に作り上げる」ことが人類の究極の理想
近代の化学においては、人間の行動もすべて物理学の法則に従っているので、自由という概念には意味がない
反証を許さない者は科学ではない。ヘーゲルマルクスのいう「歴史法則」は、あまりにも包括的で漠然としているため、具体的な事実によって反証できないので、科学とは呼べない。それは人々を情緒的に駆り立てる宗教のようなものである
複雑な社会の秩序を決める、広く分散し急速に変化する特定の時と所における環境を確かめるのには、科学はほとんど役にたたない
経済的な行動が合理的な選択よりも心理的なバイアスによって決まるという仮説
もし全知全能の計画当局が永遠の未来を合理的に予想し、世界を正しく導くことができれば、自由は必要ない
自由に価値があるのは、新古典派経済学のいうように、それによって効率的な資源配分が実現するからではない
自由の意味は、無知な人々が最大の選択肢をもち、いろいろな可能性を試すことができることにある
社会に目的なんかありえない
われわれの社会が最適だという保証もなければ、それに近づいているという保証もない。必要なのは、人々に間違える自由とそれを修正する自由を与えることによって、少しでもましな状態に保つことだけだ。それが自由な社会の最大の特長である
真の自由とは、本来すべての人が無条件の自由を持ち、例外的な(ルールとして明示された)場合にのみ特定の行動が禁止されるという消極的な概念でなければならない
もし全知全能の人がいて、現在の希望ばかりでなく、将来の欲求や欲望も達成されるかどうかを知っていれば、自由の必要はほとんどない
自由は、予測も予言もできな未知の可能性を開くために必要なのだ
合理主義的な伝統においては、自由は旧体制を破壊する革命(revolution)によって実現するものと考えられているのに対して、経験主義の伝統では漸進的な進化(evolution)によって自由を獲得すると想定されている
合理主義者は、人は最初から知性と倫理をそなえており、それによって意識的に文明を築いたと考えているが、進化論者はそれは試行錯誤の結果、苦労して蓄積された成果であることを明らかにしている
人々は自然と秩序を二分する思考に慣れているが、ギリシャ人は二種類の秩序を区別していた。人為的な秩序(タクシス)と自然発生的な秩序(コスモス)である。タクシスは官庁や企業のような組織としてわかりやすいが、コスモスは言語や習慣など、自然の秩序ではないが、かといって人間が意図的につくった秩序でもない。これをハイエクは「自生的秩序」と呼んだ

ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書)

ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書)