辺縁辺境

buonpaese2009-01-20










中心と周縁、山口昌男、マージナル、へりの; 辺境の; 限界の; ぎりぎりの; 取るに足らぬ; 欄外の.…などなどが引っかかる訳は何?う〜ん
第1点。農地のこと考えてた絡みで。
農地なるものが農地開放政策で一旦、国が召し上げて、農家に再分配されたと位置づけられると。国民の共有地だからみんなで国の食料生産お願いしますと農家の人たちに預けたと。そのかわりしっかり作ってねと。国民はしっかりしないなら返してねと言う権利があると。…仮に農地という場所がそんな法的な位置づけをされるのだとしたら、「しっかりする」とはどうすることなのか、という疑問が沸いた。安くおいしい食料を必ず作ること、生産効率を上げること、だけが農家の義務、と見做すパターンが浮かび、同時に見渡す限りの広い畑で巨大トラクターコンバインでガシガシ、山あり谷ありの田舎で山削りまくり谷埋めまくりブルドーザクレーン車なんでもありでコンクリ打ちまくってガシガシ、の風景浮かんだ。
そうした開発から、常に取り残される場所があるなぁということ。役に立つとはこの場合、国民の食料を供給する資格を有するか、その可能性を持った土地のことだから、国民用ではないが自分用または隣近所用ならちょっと不便だけどOKという土地の隙間はあるんじゃなかろうかと思った。
そこはきっと野生と人為の境界の場所だろう。有用性の領域は常に拡大していくので、ヒトの入り込めない天然(?)の領域が日本にあるうちは境界の領域は存在し続けるんだろう。しかし人為の領域を都市と呼び人里と呼んで、天然の領域に神様を住まわせたりはしても、境界の領域はいつでも「役立たず」であり続けるだろうな。しかしそこが一番おいしい、というか、楽しい場所。大切な交歓の場所、内山節氏言うところの「自然の人間の交通」が成立する唯一の場所だったりする。カウントされない場所。
第2点。それは都市にもあてはまる。
オヤジ臭いこと言うが、昔は新宿ガード下とか、傷痍軍人とか、からはじまって、ヤミ市とか焼け跡とかの残り香がぷんぷんしてたけど、なくなったのだ、猥雑で小便臭い場所が。そこは恐くて汚い場所、何か入り込んではいけない場所のようで、困った。が、境界という意味ではそこは何との境界だったんだろうな。中沢新一氏が『アースダイバー』で示したような聖俗一体の何かが潜んでいるといえばいいのか、美輪明宏から通じていくような美があるといえばいいのか、混沌といえばいいのか、かたちをなさずに蠢いている原理のようなもの。アスファルトはがして露にされる湿った地面を見て気づかされる、元々いた場所。
第3点。ポピュリズム考えてても浮かんできた。
インタネットでヒトの頭脳は様々な世界を認識したと思っても、実際は全く変化のない日常を過ごしていたりする。ほとんどのヒトは(自分も含め)埋没。投票でもシゴトでも世界が求める効率性の渦があるので二元論またはそれに近い状況で自分の帰属先から判断を迫られ続ける。そうは言っても世の中フクザツなのでそんなスピーディに次から次へと決断できる人間などいるはずもなく、辺縁に追いやられるのだけはイヤだと思考停止して、とりあえずイメージとしての中心、主流に票を落としたり、帰属を再確認したくなったりする。予定調和。そんな行動をしてしまった結論を見るのがイヤなのでさらに思考停止、保険をかけて税金を払って、準備されたお膳立てに身を投じていくという処世。溶けてしまうのだ。僕は自虐的だな。
しかししっかりできてるというか、僕も含めそんな皆の気持ちを察して、今の世の中ちゃんと思考停止の受け皿ができてるのがスゴイ。テレビ、しんぶん。これでは辺境辺縁マージナル形無しである。場所を失うということ。

辺縁辺境、要は自由の問題なのかな?