書評 水

ひさしぶりにBM技術協会の機関紙『AQUA』に書評を寄稿したのでのっけておきます……

『水戦争の世紀』『水戦争』

 21世紀は水の時代なのだそうだ。どちらの本も豊富なデータと事実の連続で勉強になった。水が豊かな日本にいて、読めば何億トン、何兆トンという天文学的な数字ばかりなので、今世界で進んでいることを想像するのは難しいのだが、石油や穀物のことで世の中全体がヤバイな、と思っていたら案の定、水もヤバかったのだ。

 2冊とも、まず世界の水資源の危機的状況を教えてくれる。地球にある全部の水のうち人間が使える淡水がもともと極めて少なく、農業工業用の灌漑、世界規模の汚染、気候変動という要因によって、その“使える水”が急激に減少していることを指摘する。
 次に多国籍企業の活躍だ。ミネラルウォーターのみならず、持てる国と持たざる国の格差が水の輸出入市場を現出させ、そのインフラとしての国際パイプラインや、巨大なプラスティックの袋を海輸するウォーターバッグなどの開発に投資が進む。
 各国の水道事業もターゲットにされていて、水源管理、浄水、集配保守など運営を民間に任せ、効率化とサービスの向上を図る民営化の流れが世界の趨勢になりつつある。
 これら背景に水利用についての世界コンセンサスの醸成があり、多国籍企業は様々に、国際機関へのロビー活動を展開しているそうだ。水企業関連ファンドも順風満帆の好況を呈すなど、地球に有限の資源としての水の争奪戦というより“利権の争奪戦”が展開されているというのだ。
 両書は“世界水フォーラム”についても採り上げている。これは民間シンクタンク・世界水会議 (World Water Council, WWC)によって運営される水問題を扱う国際会議で、世界の水政策について議論することを目的としつつも、水関連企業との結びつきが強いことも含め、各国市民団体からの批判も受けている。世界の水企業に有利な“コンセンサス”を醸成するホットスポットと見做されるからだ。

『水戦争の世紀』は、こうした状況に重要な問題提起を行なっている。「水は誰のものか?」。水が人の生命に不可欠だとして、それは人間の基本的ニーズなのか、それとも基本的人権なのかと問い、多国籍企業が主導する世界水フォーラムに懐疑的、というより対抗する立場で、水の権利を守るNGOの国際連携をこの問題の解決方法として結論する。
 水を基本的人権とする立場は大切で、その政治的な立場を応援したくもなるが、グローバル経済を止揚する力を持ち得るのかという疑問は残る。
 他方『水戦争』は「最終的には矛盾する双方の言い分を統合する思想が必要であろう」と淡白だ。むしろ現在の資源マーケットの状況と70年代との類似点を論じ、資源高騰時代は日本の出番、絶好の機会などと、どうも人権より日本の経済として水を論じているように思える。平明に論点を抽出するが、いかんせん商社的。食糧自給率の低い日本が、食糧に形を換え大量に水を輸入している事実が、水問題としても国際社会から批判を受ける状況など、傾聴に値する知見は、ある。しかし水ビジネスのグローバル化を容認して暴走を止める力を国に期待するのもムリではないかとも思う。
 いずれにせよ、2冊両方を読むことをオススメする。いいかげん勘弁しろヨと言いたくなるが、明日は我が身の問題でもあるのです。基本的には足元見つめることが大事だなと…。

「水」戦争の世紀 (集英社新書)

「水」戦争の世紀 (集英社新書)

この書評で書けなかったことで、普段少なからず感じていたことがあった。それはある社会問題が発生したとき、それを社会通念で捉える人と、経済合理性で捉える人が分かれることだ。ぶっちゃけると、出来事を考え込む人と、出来事に乗っかる人。損得の地平に立てない人と、明るく得に乗る人。実現しない遠い目標をしゃべってしまう人と、実現する近い目標を行動しちゃう人……。
地球規模の問題というのは、人間の感覚で実感することが難しいから、何か問題があると指摘されたら、その指摘を導き出した仕組みが信頼できるかをチェックする必要が生じる。こう考えていくと、どうも様々な「身の丈には大きすぎる問題」というのは、個々の人間の小さな想念の集合体だったりする。となると、集合体が大きければ大きいほど、その問題の信憑性は生き残る確率が高くなるというか、要は現代社会、人間の行動以上に問題視される現象はざらには無く、予測可能性の範囲が飽和状態に近づいているというか。となるとやはり人間社会内面の事故が最も地球規模の問題に影響を与えていると思うのだ。
書評でせめて「いいかげん勘弁しろヨ」と書いたのはそこらへんのことだった。両書を眺めてわかることは、地球規模の水の問題で、人間はこれほど違う立場をとることができてしまうのだ。