文化自給率

buonpaese2008-07-06


 お茶のことを考えていたら、ふと“文化自給率”という言葉が思い浮かんだ。

 最近よく耳にする“食料自給率”は、カロリーベースといって、食料をカロリーに換算している。お茶にはカロリーほとんどないからあまり関係ないんだが、はたして日本人はお茶を自給しているかと問うと難しい。
 なぜなら僕たちが普段飲んでいると思しきは生産量トップの静岡か、第二位の鹿児島産の可能性がいちばん高いはずだが、その静岡、鹿児島で生産されているお茶のほとんど、9割以上はご他聞に漏れず大型の蒸し製茶機械でオートメ生産されたお茶であり、原料の茶の品種も8割以上は“やぶきた”だからだ。“お茶業界”という巨大な私的機関が、飲料メーカーとして寡占化したマーケット向けに量産した“商品群”を買わされている構図に近いような気がする。

 実を言うと自分が手伝っている「食のたからものプロジェクト」で九州地方の“釜炒り茶”()を調査した。そこで見聞きした限りにおいては、日本のお茶は決して現在のスタンダード、蒸し製煎茶だけが日本のお茶の本来の姿ではないとの確信を持った。であるので、今お茶のことが気になって仕方がなく、じゃあその茶の自給って何なのさ、との問いがぐるぐる頭の中を巡るようになっている。

 さて話を戻そう。生産物としてのお茶の自給率中国茶があるから100%ではないにせよそれなりに高いはずだが、この場合はお茶というカテゴリーで論ずるより飲料全体、コーヒー、ジュースとか清涼飲料水も含めて、どのくらいが自給されているかで測ったほうがいいのかもしれない、と書いてしまうと余計ワケわかんないか。
 しかし、こう考えるとリーフティー、急須で飲むお茶の自給率はどうだろうか? ペットボトルのお茶に需要は移行中。飲料に占める急須のお茶の比率はかなり低いはずだ。

……要するに、お茶の自給を考えたときに、生産物としての自給率を考えてもこの機械製蒸し茶占領状態では虚しい。すなわち消費者それぞれが、自分はどんなお茶を飲みたいかが語り合われるような状況とはほど遠いこのお茶というものの自給率は、文化自給率というような整理で取っかからないとなんの方向性も見出せないのではないかと思ったのであった。

だって、あなたはコーヒー派、それとも紅茶派?みたいな問いは成立するではないか。その選択肢に日本茶派があるのだが、じゃあどんな日本茶と問えないような状況って、文化的には貧しい気がする。んでもって“カテキンとかポリフェノールで健康にいいしね”なんて答えが予定調和的に準備されようものなら、そうとう困り者のように思える。あそこのあのお茶はこうこうこんなふうに作られててさぁ、香りがね、むっちゃいいんだヨね、とかの話題が盛り上がるようでないとなぁ、というイメージがいいんだけれど。

そもそも喫茶店って茶を喫する店と書くのにどうして茶じゃなくてコーヒーなんだよう!ああわけわかんない……