自然の原理、人間の原理

 この言葉が最近のキーワードになっている。
 自然の原理は、まあ自然の摂理でも宇宙の法則でもいい。人為ではない営みのことだ。
 人間の原理は人為のこと。
 この概念を自分ではないヒトが語ったのを知ったのが去年のBM技術全国交流集会の席上、長崎浩さんのお話が最初。自然の摂理から導き出された技術の発見を広げていくのが人間の力、それは人間原理なのだが、一旦周知のものとなったときその自然の摂理を別の解釈で理解することも人間の原理のなせる業だと。ある原理で集まった集団を統率するのは組織という人間原理であると。
 組織という原理は時に自然の原理を排斥することもある。その象徴的事例がガリレオを糾弾したキリスト教会だ。
 今日は山形県の庄内でとあるレストランのオーナーシェフのお話を聴く機会を得て、全く同じ話で意気投合した。シェフの大切な仕事のひとつに食材選びがあるが、そのためにそれぞれの食材が育つ適地を選ぶという。適地からはずれたところでいい食材がつくれるかと聞くと、その場合は人間の努力によるしかないでしょうねと。ボクはこの返事にピンと来て、自然の原理と人間の原理ですよねと返すと、そうなんですよと応えが返ってきた。
 当たり前ではないかと思われるかもしれないが、的を射たスローガンとか、理念というものに潜むムリ、時を経ていくらでも変わっていく人間の解釈に、ボクは身を委ねることができない。組織は人を統べなければならず変化を恐れてはいけないというが、統べるために変化していく組織の本質とは何だろうか。また、こうした集団で、従うことに盲目なとき、その盲目さが免罪符となって自然の原理を見極める力を失っていく過程が集団を強くするのだとすれば、そのような集団の本質とは何だろうか。民主主義の最小単位としての個人が、自然のどのような問題に代理性を持つといえるのだろうか。
 人間の原理というのは、そのような原理だ。