おいしさと文化

 途中でホッポリ出していた『食のクオリア』考の続きを書こうと思った。約210ページのまだたったの90ページ目だったのだ。

…他人の作った料理を食べるということは、究極の信頼を寄せることである…文化は、互いが作ったものを交換することで成り立つ…食の文化は、他人の用意したものを食べるという「信頼の法則」が成り立たなければ、崩壊する…現代社会における食体験の多様さを支える倫理体系と、言語コミュニケーションの豊かさを支える倫理体系の間には、多くの共通点がある…料理の持つ記号的なスタイルを究極まで突き詰めたものが、「どこで食べても同じ味」という、ファストフードのチェーン店に象徴されるような食の規格化であろう…いつ口にしても同じ味…と…またあの味をと願ってもなかなか出会えない一回性の体験がある…その両方があるから、食の文化は豊かになる…食は言葉であり、言葉は食なのである…

 この項のポイントをなぞり書きして、贈与の何ぞやとかのことを思い浮かべた。確か、言葉のやりとりの原初的形態も、他者が発した意味不明な「音」に出合う当事者は、それに対応するために、やはり意味不明な「音」を返すことから言語が形成されていったというような…。経済活動の原初的形態としての沈黙交易も、未知の他者が差し出す何らかの贈与物を、その価値の何たるかも知らず、言葉も発せずに、どうしても何らかの返礼を返さなければならなかった。なぜならば互いの贈与物の等価性がわからないからこそ、交換を続けなければならないという心理的圧力が働いた…というような、そんなおぼろげなことが思い浮かんだ。レヴィ・ストロースだったか『野生の思考』?
 然るに、他人の料理を食べる行為はまず、相手に戦意がない前提で、とりあえず全幅の信頼を置くことから始まるのはその通りだろうし、畢竟、言語コミュニケーションの領域も根源的な地平において、その意味する内容の前に、相手が何らかの「音」を発することから、その相手の行為そのものに信頼をおいてのみ始まることが出来るのであ〜る。遠い外国に旅して、カタコトの現地言葉でも、相手がしゃべっていることの意味がワケわかんなくても、とりあえず笑顔で返答する僕のようなバカさ加減の中に、『野生の思考』たるコミュニケーションの根源が潜んでいる。そこからでも、とりあえず開始され継続されていく何らかを称して(その継続の時間はどんな長さ以上か?)、文化と呼ぶのであるか。
 茂木さんがここにファストフードの要素を割り込ませた点には、世界コミュニケーションの安穏性が感じられた。ファストフードを言語になぞらえれば、まんま現代世界を席巻している英語がハマり、その英語は世界言語の多様性の抽出物というより、とりあえず誰でも安心して使えるという使用価値と共に、世界に英語が席巻していった歴史という“覇権的な”ニュアンスもつきまとうではないか。
 構造主義の先達が示した言語コミュニケーションの原初的価値は、その意味する内容を共有することから発した者では決してなく、すなわち(少しだけ安心している僕などとは違い)最初に英語ありきではなく、英語以前の多言語社会の構造そのものを普遍化しようとしたもののようである。しかしこの説明よりも、とりあえずファストフード(または英語)のような存在を、その歴史性は捨象してしまってから、その対極に鎮座する「食における一回性の体験」をぶつけてしまって、単刀直入、食と言語の実在としての多様性と根源性を示す方が、なんとなくではあるが「う、うん。そうですね」という説得力を持つのだナァ。
 なんだかワケわからなくしてしまった。
 食は言語同様、前項で語られたように、使用価値を措きその記号的意味合い(イメージ)が消費される。またファストフードのように使用価値が記号化され世界を席巻したりする。その一方で昨今は、その使用価値が全く別の次元で逼迫しつつあることから、その実情が交換価値と見做されはじめている。
 ハンパでごめんなさい。