天地不仁

buonpaese2008-06-21

 '75年から'88年の激動の時代に、朝日新聞の「天声人語」を担当し、時代を切り取り続けた辰濃和男さんという人がいる。その人の書いた『文章の書き方』という本に「天若有情天亦老」という言葉があった。天もし情(こころ)あらば天もまた老いん。自然の摂理が非情であるから普遍。情があっては乱れるだろう。人の世も然り。非情の相を見定めることが大切ではないかという意味だそうだ。
 この「天若有情天亦老」、毛沢東の書だという。自然(または野生)の原理と、人間の原理との狭間で、人間は迷いやすい。その迷妄を有情ということばに整理したうえで、天(自然)の普遍性に、人間原理をどのように沿わせることが可能なのかを伝えようとしているのだな、と感じ入ったことがあった。
 それが1年ほど前のこと。今日、あれ?似たような言葉に出合った。
天地不仁。
 ……天地には仁慈の心はない、という意味。老子だそうだ。『中国茶 風雅の裏側』(平野久美子著)という本に引用されていた。あまりにもニセモノが出回ってしまう中国茶の真贋について、著者はその当事者であるはずの国営企業の役人に、フランスのAOCのように、国が何らかの制度で保護して信頼を担保する必要があるのではと質問して飛び出した答え。対する役人は全く取り合わない。だまされた人間が悪いとでも言いたそうな役人。著者の質問をナンセンスと見下すように、飛び出した返答が老子の「天地不仁」という言葉だった。
 法律や制度で、すべての人間を最大公約数的に守ろうという民主主義は、時に衆愚との謗りを受けたりする。その常識にどっぷり浸かってしまい見えなくなるのが自然の原理なのだとすれば、僕は「天若有情天亦老」も「天地不仁」も、心して忘れないようにしたいと思う。
 しかし今日奇しくもこの本から、この文脈とは違うことを知った気がした。中国人のものの考え方についてのことだ。中華思想というものかも知れないし、華僑に連なる大家族主義かも知れないし、そこらへんはよくわからない。弱肉強食というのか、中国の人々の常識の置き方に違和感を覚えた。しかし今自分が身につけていると思しき常識そのものも、自然の原理だけでなく、場合によっては人間の原理によっても覆され得ることだけは確かなようだった。似た発想か、昔読んだゲイリースナイダーの『野生の実践』が近いかどうか。感覚的には、なんだか困った。整理つかず。