換骨奪胎

 換骨奪胎、というグサっと来るような言葉を、先週農文協のKさんから聞いた。
 農業の世界の話で恐縮だが、一昨年から「品目横断的経営安定対策」なる制度が始まった。はしょって言うと、国が経営安定のための支援を一定以上の面積で営農している(担い手とみなされる)農業者を対象に推進するというものだ。零細規模の中山間地農業に壊滅的な打撃をもたらすのではないかと批判の多い制度なのだが、その人は、とある自治体が制度を利用して、地域が元気になるための取り組みに逆利用したとの喩えに「換骨奪胎」という言葉を使った。
 意味は「古人の詩文の表現や発想などを基にしながら、これに創意を加えて、自分独自の作品とすること」ということだが、この場合のニュアンスとしては全くの別物を生み出すというか、悪しき制度を良い内容のために使い変えるといった表現になる。
 この逆もありで、すばらしいとされた考え方や概念を表す言葉が、換骨奪胎されて、本来の意味が失われるとこともありはしないか?
 ……と考えて、その日の僕はグサっと来てしまったのだ。
 例えば自分。今の自分と称する存在は昔の自分とは全く中身の違う自分なのではないか? 例えば有機農業。現在使われている有機農業という言葉は、その黎明の時代に骨格をなしていた何かの価値観が、すっぽり抜け落ちたものになっているのではないか?
 質的転換を求める動機と、量的拡大を目指す動機は同じではない。たとえば本来、有機農業が標榜した質は脱石油であったような気がするが、今、有機農業を実践している農家は石油や資材の高騰に悲鳴を上げている。では自分は何なんだろう……でグサっと来たのだ。たぶんダラクしている。
 そんな自分がやはり先週、出張先山形の庄内で久しぶりに会った後輩のTくんから「ラダック−懐かしい未来へ」という本の話を聞いた。彼は一時期東京で働いていたが、8年前から自分の故郷の会社に就職し、都会と田舎の長短をそれぞれに解釈する人間なのだが、この本、正直言って今の自分がじっくり読める自信がない。説明は省くが、グローバル化が叫ばれている現代、その末端で糊口をしのいでいると思しき自分は、もうその現実を否定するか見てみぬふりをして、懐かしいことや本来あるべき行き方をロマンチックに空想する余裕がなくなっている。どうも彼我の整合性が見えない。すなわち夢を見ることができない体になってしまっている。その意味では山尾三省さんからも遠ざかってしまっているなぁ。
 このことが今の自分にグサっと重たい。質的転換、僕の最大の弱点であるような気がしてならない。