軍艦島

 岩崎さん訪問を終えた翌日は、Nちゃんを空港に送った後、針路を長崎の突端野母崎に向け車を走らせた。野母崎は長崎の、南に突き出た岬。東は橘湾をはさんで島原半島、西の海は東シナ海長崎市からの何の変哲もない国道は工事が多く、安売り店やコンビニなどにぎにぎしく、通勤圏なのだろう交通量も多かったが、道はだんだんと静かに、曲線を描き海に進み出た。そしてほどなく海上に小さく見えたのが軍艦島だった。
 島である。が、木もなく廃墟のような建物が灰色に立ち並ぶばかりの異様。あれは何だろうと一瞬躊躇したが、すぐにこれが軍艦島であることを確信した。2年ほども前だったか、雑誌『九州のムラ』で特集されていたからだ。
 この島の本名は、端島という。単なる岩礁でしかなかったのは1800年代。そこで石炭が掘れることからわかって後、一時は5000人の人が起居する炭鉱の浮島となったのだそうだ。閉山が1974年。今は無人島となって、もぬけの殻の骸骨のような姿をさらしつつ、もう30年近くも浮んでいるということだ。ちょっとした名物でもあり、通称を軍艦島。クルージングのツアーもあって、世界遺産への登録運動もされているそうだ。

 数えれば、人が暮らし島生きていたと言える期間が170年ほど。30年をひと世代として6世代弱の歴史。炭鉱だったのだから、夕張や三池炭鉱など、昔その悲哀が報じられたテレビ映像を僕も記憶していた。往年の名観光地も今はキッチュにさびれた姿をさらしているし、昔栄えた名残を残す場所というのは、どこも哀しい。
 しかしこの島は、あまりにもハッキリしていて哀しいを通り越して無残といえる。石炭を採掘することだけが目的、はっきりそれ以外ない島。採掘する労働者のための住居、商店、映画館のもろともが採掘終了とともに機能を停止したことだろう。最初に移住した人々、最後に島を後にした家族も、はっきりと目に見えてわかっただろうし、その人たちの心持はどんなものだっただろうか。6世代といえば相当な思い出を残した人もいたのではないだろうか。その人々の生活の歴史はどこかにか、残されているのだろうか。