おいしいこと、自然に帰ること

私たちは、食べ物の味とは、その食物の物理的属性のことだと考えがちだ…「記憶」とは、過去の体験が脳の神経細胞の間の結合パターンに残した痕跡のことである…ある時点で存在している神経細胞うしの結合の様式が記憶である…長い進化の過程で、人間の脳が現在のような形に作り上げられてきた、その痕跡も、広義の記憶と言って良い…遺伝子によって指定された脳の基本的アーキテクチャは、基本的に自然環境の中で生き延びるために形作られてきたと考えられる…記憶とは、単に生まれた後に体験したことを指すのではなく、脳の中の神経細胞の結合様式に残された痕跡をも指すと定義を一般化すれば、自然体験が人間にもたらす根源的な喜びの起源がより明らかになってくるのである…長い進化の過程で慣れ親しんできた基本的なおいしさの要素に接している時に生じる認識のプロセスや情動は、長い進化の過程をも反映しているという推論は、科学的に見てかなり確実性が高い…「思い出せない記憶」…暗黙知…脳の中に蓄積された膨大な痕跡のアーカイヴ…環境への適応の痕跡が、私たちの脳内に残されている…グローバリズムへのオンとオフが、同時に、脳内の進化の過程のオフとオンにつながり、脳内快楽物質を分泌させる…

 ここで茂木さんの言わんとするサワリは、単に「食べ物の味は物理的属性だけではないのですゾ」ということだ。その上で“思い出せない記憶”の領域にこそ、驚くべき真実が隠されていると論ずる。体験はしたが思い出せない記憶のみならず、生命の記憶そのものに“おいしさ”の記憶がしまいこまれている、と指摘する。思えばおししいということは、身体がその時々に欲するモノに対する“欲しさ”のサインであって、たとえばアミノ酸、糖、塩をおいしいと感じる絶対量も、ミネラルの苦味や辛味をおいしいと感じる絶対量も、身体を構成する成分バランスに依拠している感じがする。どこかで聞いた話によれば、それは海水の成分バランスに近いとかも言う。
 茂木さんは前章で、おいしさは耕されるべき感覚である、後天的な属性に密接に関係していると論じた。この言説はここでぐるっと未来に循環し結ばれていく。蓄積され捨象され、受け継がれ形態すらも変化を遂げ、終わらない流転の物語になっておいしさも進化していく、という話に落ちる。
 こうした考え方の元となる記憶なるものが、脳のどの部分に収められるものかは知らないが、煮詰めると“生命コミュニケーション”とでも言うのだろうか、脳というメカニズムのつかみ所の無さにも驚かされる。これを科学する茂木さんもすごいが、僕などは“つかみどころ”がないものだからこそ、古を頼みにしがちだ。まちがっても記憶を演出するクスリとか、バーチャルリアリティの方向で“思い出せない記憶”も含めた操作が可能だなどとは思うまい。むしろ次世代への記憶のひときれでも、僕の人生が関わっていることを心に留め置くことで、より良い食生活を心がけたいものだ。
……それにしても脳は深いナ。