おいしさとコミュニケーション

『食のクオリア』。まだ1/4も進んでいないが、そろそろ内容にドライブがかかり始め。いつものごとく引用から……

デジタルのデータは時間や距離の制約を超えて地球の上を流通していく…食べ物のおいしさ自体には、依然として地方色がある…食は、その土地独特の風土や食材、文化によってはぐくまれてきた。デジタル情報があっという間に伝わる現代においても、食は、あくまでも「ゆったり」としか伝わっていかない。場合によっては、本来の味わいは、その土地を一歩も出ない…人間は、コミュニケーションというものは時間や空間の制約を超えて伝わるものだと思い込んできた…場所にどっかりと根付いて味わうしかないものがあるという事実…人間も、本来、その土地で育まれてきた糧を得て、自らの生命を支えてきたのではなかったか…もはや土地に根ざしたスローフードだけが、私たちの日常の食を支えているのではないことは明らか…食べ物を見て、香りを嗅ぎ、口に入れて舌触りを味わい、飲み込んで身体の中に取り込む…きわめて近接した相互作用がなければ、味わうというコミュニケーションはそもそも成立しない…食べる、ということが、本質的に距離の制約の中で行われる行為であるという点に、今日においてもおいしさの驚くべき地域差がある根本的な原因がある…不自由こそが、味わいのバラエティを生み出し、食の文化を生み出している…食のコミュニケーションにおける不自由は、食の創造の自由と密接に関連しあっている…土地に実際に行かねば出会えない未知の味わいに対するあこがれ…身体とは、近いコミュニケーションを行うためのインターフェイスである…

 食における距離の問題だ。
 梅田望夫さんのblogで、昔「情報はインターネット、食はグローバル物流」という言葉が飛び込んできて驚き、それを書いた(食べものの境界線)。そこで「食なんて食べられればいい(と決め込んで)その深さ身体性そのものから遠ざかるかしかなくなってしまう」として、いやはやこれでは食を糧として生み出している地域のすべてを植民地とみなすことを認めちゃうんじゃないか、終わっちゃってるの?と嘆いた覚えがある。
 茂木さんはあくまでも「味わい」について語っているようだが、ここで明確に“遠いコミュニケーション”“近いコミュニケーション”を切り分けている。そのうえで、インターネットに象徴される記号的なコミュニケーション(文字も含む)と、食という身体的なコミュニケーションの、食の領域における混雑具合を説明している。
 それは現代の食がある部分で記号的に取扱われていることを示唆するし、事実、栄養成分から衛生基準、トレーサビリティに至るまでを規格化し、その記号化された表示と、その表示の示す価値を数値化した“価格”の提示によって初めて、“購買”というコミュニケーションを成立させているのが現代なのだ。その影ではまさに“グローバル物流”の網の目が大活躍し、世界中の食がクリックひとつで食卓に届くという、信じられないような利便が現出している。
 こうした約束事の数々を、私たちが出会ったこともない様々な人が、私たちの知らぬ場所で自動的にこなし、その上で初めて、というかその手続きを踏まねば私たちは入手できないところの“食べ物”に接することができ、そこからやっと“近いコミュニケーション”を開始する資格を得ることになる。
 僕が「食の身体性から遠ざかるしかなくなってしまう」と嘆くのは、今説明したような状況でモノ(物質)と化し、記号と化した食べ物のみの“購買コミュニケーション”それ一辺倒が当たり前になってしまうことへの危惧からだ。これを否!と社会化しようとすれば、ぴったりカルロペトリーニの提唱するスローフード運動が、その多角的なアプローチの手法、知的な深度も含めて、あてはまる。

 その一方で、茂木さんが正面からではないにせよ、“近いコミュニケーション”が実はヒト対ヒトのそれではなく、ヒト対異物(食べ物)との交流、交接を意味していることを今一歩掘り下げてもらいたいと思う。ヒトという生物が、本来の身体感覚を呼び戻す入り口として“食”というものがあるという側面。そして、せめて情報の質において、実際にその土地に足を運ぶという“旅”の要素において、その感覚器官としての身体を磨くために、今一度“食べること”を考え直し、組み立て直していきたいのだ。