おいしさと脳内快感物質

 ここらへんからが農家学者(もとい脳科学者)の真骨頂…あいかわらずの引用…

食べ物に関する嗜好性は、そのことによって生じた摂食行動の結果、食物が実際に体内に摂取され、同化され、身体の一部になるという点において特別な意味を持つ…おいしさが、単に感覚の歓びを意味するだけでなく、生命の維持において重大な意義をもつ…ドーパミン、β−エンドルフィンをはじめとする様々な脳内物質が作用した結果として、ある食べもの、飲みものの「嗜好性」が決定される…脳の快楽を司るシステムにとっては、対象が食べものでも、仕事でも、遊びでも、本質的に変わることはない。快楽は決して本能だけで決まる動物的属性ではなく、むしろ、耕されるべき文化なのである…素晴らしい食の体験とは何かを追求することは、すなわち、人間にとっての快楽のあり方を洗練させ、高度なものにしていくという意味での文化を耕すことなのである…人間の脳は、予定調和では満足できない

 前章で茂木さんが、遠いコミュニケーションと近いコミュニケーションを論じたその続編であるようなこの章は、まさに遠いコミュニケーションというものが身体性の外側で機能する事実に対置させることで成り立っている。
 僕は、哲学者の内山節さんの“交通”という話−それは人間相互の交通、人間と自然の交通、自然相互の交通という3者をバランスさせる思想というようなものだったと思うが−に触発されて、ああだからこそ人間と自然の結節点としての里山や海辺は大切なのだと考えてきている。それと似たような構造が茂木さんの示す“近いコミュニケーション”、この章でいう“特別な意味”すなわちそれは多分、反自然的なふるまいをするヒトと、脳が意識の図像を結ぶ結ばないにかかわらず機能するところのヒトとの相克であると直感する。しかもその相克の領域は、生得的に解消されることはなく、耕されるべきであると、この点を茂木さんは断言している。
 であれば、文化を耕すその土壌はどのように醸成されるか。スローフード的な食のみで私たちの食が満たされているのではない現実から、目をそらさずにどう向き合うのがいいのか。個人においてそう意識し、もういちど主体を自らに戻して、そのように食に向き合うことも大切だろうし、食を巡っての解釈を、成文法ではなく現場主義で徹底的に多様化させていくことも必要ではないか。とおり一遍の解釈は、茂木さんの示すところの予定調和を準備するし、それは即思考停止を意味するのだから。そうならない、耕されるべき文化としての食を、なんとか伝えていきたいと思うのだ。