食べものの境界線

 やはり来た。2日前僕は“食べ物の境界線”という題を書こうと考えていて、それを紐解こうと、まずスローフード協会会長の『スローフードバイブル』を少し読み直し、次に自家採種の有機栽培農家、長崎に住む岩崎政利さんの話していたことを整理しようとしていた。ところが2003年に自分がまとめた岩崎さんの語録が思いのほかすばらしく、僕の別blog“walk around”に再録する方に力が入ってしまい、時間切れ、もう寝ようというときに、梅田さんのblogを眺めたところだった。以下梅田さんblogから引用……

海外に住んでいても「情報についてはネット」「食材などのリアルな物についてはグローバル物流」のこの十年の異常なまでの発展によって、「海外に住む」ことの敷居がおそろしく低くなっていることを感じた。

 やはり来た、というのは極めて自分の世界の勝手な解釈に過ぎないのだが、食の世界を考えようとしている身には食べ物の境界がどこまで広がるのか(自給自足以上世界中以下の範囲。宇宙食をのぞく)というテーマの琴線に触れてしまったのだ。食材などのリアルな物についてはグローバル物流。すごく醒めた、どきっとさせられる言葉だった。
 考えるに、まず“旅”というキーワードから深めるアプローチとして、スローフードバイブルでカルロペトリーニ会長の提起、

旅をしなければならないのは、人か食材か?

があった。
 次に岩崎さんが野菜の種について、それらがもたらされた遠い国に思いを馳せる観点があり、そのうえで僕は、旅もタイムスパンでその意味が大きく違ってくるものだぞとの論をたて、援用として宮崎正勝さんの『食の世界史』で語られている食の四大革命に話を進めようとした。さらには梅田さんの展開するwebのグローバルな認識世界の拡大という事実や、WTOFTAなどが象徴する標準化の力学をぶち当て、最終的には旧態依然とした自給論、国産崇拝そのものが陳腐化するのかしないのかを考えようとした。
 ここらへんまで来ると、こうした状況にフィットする、食を表現する言葉そのものを開発しないといけないなぁと限界を感じつつ、しかしきっと言葉を失ってしまっては、食なんて食べられればいいとその深さ身体性そのものから遠ざかるかしかなくなってしまうと思うので、なんとかしたい。が、もう眠いので次の機会に。それにしても「リアルな物についてはグローバル物流」か。