標準以上

『千年は働いてきました』の続きになってしまうが、この本で印象に残ったことは色々あった。このうち「標準以上」ということについて。
 書評に書いたがとにかく現代社会は標準が多すぎる。人は定められた条件を充たすことを目標にせざるを得なくなっているし、それでいいのだとまでなっている気がする、構造的に。本当は世の中には、標準なんてものは存在しないのだ。ある食べ物がおいしいかおいしくないかは食べた人が感じることだ。ある絵が美しいかどうか、気に入るかどうかは見た人が感じることだ。
 同様に、あるジョークが面白いか、ある考えがある生き方が正しいか、すべて何らかの標準に照らして評価しないと、何が正しいのかわからなくなっている。それは処世的に、どうもそのような価値判断をしたほうがうまくいくらしいことを、みんなが肌で知ってしまっているから、とも言うし、一旦学校教育で植えつけられた価値基準が社会で通用しないことを裏付ける形で、みんなが納得確信に至った結果とも言うだろう。
 そしてヘタをするとその標準というものに関係して、標準に至らないグループが、その中で「がんばって標準をめざそう」などというナンセンスな目的意識すら生み出していく。標準をクリアすることを誇る価値観、称揚する社会……
 基準、水準、標準、規則、制度……。それらは常に、時代と共に変化するものだ。今の時代はとても変化が大きい時代のように見えるので、しかもこれらのモノサシが変化しているので、さらにその変化によって様々に影響があるので、意識せざるを得ないことは仕方がないのだが、面白くない。変化に自分を合わせることが、面白くない。
 そんなことを『百年働いてきました』を読んで後、強く意識するようになっている。それはこの本は「つくり手」の話だったからだと思う。
 情報化社会という実質が力を持ち、その中でモノ作りの人々は翻弄されている。モノ作りの本質は、モノが消費される過程は別として、情報インフラの変化ほどの急激な変化とは無縁だからだ。自分も、モノづくりの立場からものを考えてたいと思っていたことに気づいた気がしたのだ。それは自分が若い頃絵を描いていたからだと思う。
 絵を描くことも含めて、モノ作りの世界は2つの側面がある。周囲の変化に関わらず変わらない部分にこだわる、少しずつしか変化しない側面と、極めて微妙で神経質な、余人に説明不能の、変転極まりない先鋭な側面。常に標準を意識し、というか基礎的な素養経験技術なしにはモノ作りはできないところの標準を鍛錬し、いつでも臨戦可能な状態を維持しながら、その上で自分だけのこだわりを実現しようとする。練習を積んで試験に合格すればよい世界では決してないのだ。標準以上の世界で仲間とライバルと切磋琢磨し、その上でお互いを批判し理解し合い、共通の意識が生まれていく。モノづくりとはそういうものだと、改めて思い出したのだ。
 そんなつくり手を応援しよう。