散漫な思考

 思考がどう巡るかを考えた。ヒトはいつも何かを思い浮かべあるいは考える行為を連続させている。何かのテーマについて思いを詰めていることもあるが、そんな縛りを課していないときはランダムに。
 しりとりのようなもの。言語に発する手前の情景があり、そのなかで引っかかる要素の“何か”がアンカーとなって、その“何か”についての情景が次の思考に結ばれていく。そこにはまた別のアンカーがそのまた先の情景を呼び……。が原則的には際限なく連続し、時間とともに忘れていく。
 その情景には、たわいないこと難しいことも渾然と含まれ、その時のそのヒトが重要な事柄や急いでいる事柄を抱えているほどにランダムさは失われる。この意味で考えを詰めるという行為はストレスを伴う。ストレスに強い頭脳を鍛えることを一般に勉強とか集中力とか言うのだと思うが、それでも「ふと」ランダムな情景が入り込んでくる。これを称して「散漫な思考」とも言うが、ここに大切な何かが含まれてははいないかと思ったのだ。
 何となくではあるが、ストレスから遠い、すなわちリラックスしている状態は、そのヒトの認識している外部との関係(交信)においてムリのないポジションにいることを示しているような気がする。受発信をしやすい状態というか。裏返せば、思考を集中させるということは、意識して不要な情報(情景)の乱入を遮断することでもある。

 さて、際限なく連続し、時間とともに忘れられていく思考は、喩えるならパソコンの一時メモリのようなもので、保存せずに電源を切れば記憶されない思考と言える。たわいないことはいいが、中にはすばらしい思いつきも潜んでおり、その時点で使用価値はないが、何らかのフォルダに退避させることで、いつでも取り出せる状態を構築できないかと考えた。
 そこで昨日は試しに、車の運転中、シゴトで買ったICレコーダーで、思いつくことをつらつらと言葉に落とし、独り言として録音していった。
 今日聞きなおし記録しているこれが、その思いつきの第一号だ。

 散漫な思考は思いつきとも言う。思いつきは行動に連動していないので不用意にしゃべると「思考が散漫」ともなる。しかし散漫だから意味がある。ひとまず訓練として、この散漫な思考を蓄積しながら、言語(文字)に落とし込む作業を続けてみようと思う。