いろんなブログをサーフィンしてみて

感じたことがある。
有機農業ポータルはあるのかな、ってことだ。

まず、現状有機農業というテーマでは、個人それぞれが自由にblogなど書いたりしないんだ。その人の暮らしや食、農業にまつわることがテーマなのであって、有機などということのみはテーマになり得ない。じゃあどんなところで有機農業が語られているかといえば、農水省とか大地を守る会、日本有機農業研究会、マニアックな個人といったかな〜り偏ったところで語られており、しかもその内容は個人の生活実感とは程遠い、基準や規程、法規、歴史、思想など、「である」「べきである」「なければならない」「認める認めない」の文言の運動会。かな〜り“居丈高”な印象を受ける一方通行の情報である場合が多い。楽しいとかおいしいとかとはおよそ対極にあるような、遠い場所からの情報発信のように思えるのだ。様々な取り組みや事例を取り上げて表面上楽しく有機農業を表現しているかに見えるところでも、その情報は必ず情報提供サイドの検閲済みである。主義主張に矛盾しないものを載せざるを得ないからだ。

そりゃそうだろそういうものなんだもん。そういうものである理由は僕もこの業界に15年いるからよくわかる。まずそこには有機農業とは何かを発信し続けねばならない事情があって、それこそ真剣な議論の蓄積がそうさせているのだし、その重要性から有機農業という概念が突出し語られていった過程で、つきまとっていたはずの生活実感とか様々な要素が捨象されていったのだから。しかも有機農業という概念が、その言葉は法制化も含め自分たちの手を離れていっており、知らない人たちの知らない解釈も一人歩きしてしまっている状況では、以前より声を大にして「そうじゃあないんだよう」と叫び続けなければならないことも理解する。

しかしも〜い〜のではないか?

有機農業という言葉はもう市民権を得ているか、もしくはそんな声を大にしても人はあんまり気にしていない。決して重大問題ではない。極論だが(というか極論を前提に僕はこれからの自分の考えを整理していくつもりだ)、有機農業の定義などもどうでもいいのではないか?たとえ何も知らない人が、有機より無農薬のほうが安全なんでしょ?と思っていても、いいじゃないか。いろんな人が勝手に有機はこうですとか、間違った解釈してもいいじゃないか。間違った解釈も含めて、有機農業は定着し終わったんだ、と考えよう。

と考えていったら、別の局面ではいろいろと感じてはいたのだけれど、僕は今日、有機農業という概念ではポータル作れないよな、ということにいまさらのようにはっとしたのだった。

そしてその反面、blogサーフィンで気づかされた事実は、地域や伝統や旅にまつわるテーマのなんと多いことか。僕が知りたい、考えたいテーマが、テーマ全体から探してもほとんどたどり着けなかったのに対して、都道府県別の入口から探すと、あるわあるわ、それこそ日本の国はまだ捨てたもんじゃないと思うほどざっくざくと出てくる。これはblogだけじゃなくて情報発信全体がそうなっていると思う。そこらへんをしっかり見極めていかないと、食の世界についての考えを整理するなんてとてもじゃないがムリだと、その膨大な情報量を感じて心底思ってしまったのであった。

一人歩きしてしまう情報や、ある種の概念への解釈の自然な変化を、その人の義務感から看過せずにしっかりと修正するマジメさが正しい、ということは、それはそれで否定はしない。そのために何らかのポータルたらんとすることを否定しない。しかしこうした勝手な変化をも含みこんでその上で生まれる価値観を予測することのほうに、ものの考え方を先読みさせる必要がある、と感じた次第だ。

有機農業という概念について言えば、有機農業をアイディンティティとする組織やこれを取り扱うかまたはこれによって何らかの利害が発生する組織以外、社会の(食の世界においてすら)重要ごとではなくなっていることを、改めて覚えておきたい。重要なのは、有機農業という概念を生み出した時代の背景や、有機農業そのものが、これからさき、つまるところ何を目指すのかといった中身を、(敢えて言えば)有機農業という言葉に代入できる言葉を生み出すことではなかろうか? この意味で、有機農業はもうポータルになりえないのだと自らに戒めたい。「おいしい村」の時代なのだ。

……こんなこと考えているのは、僕がまさにそこらへんにメスを入れたくて、ここのところWEB2.0とかなんとかで、ああこれからWEBの世界も変わっていくよナァと始めたこのblogも、自分のアタマの中を整理しつつ、どうやって自分の考えが表現され得るのか、表現というのは言葉だけじゃなく何かの形(食の世界)をなすことも含め考えたかったから始めたものだ。しかも前提、その背景としてはこれまでの情報発信手段や、集約の仕組み、ネットワーキングの手法、場の提供なども含めてこれまでの考え方を一旦チャラにして考えるべき、そうしないと多分出口もないという、自分にとっての大きなカベがあったからだ。……ちょっと今日、そのヒントというか入口のようなものを感じたのでした。


写真は2005年九州若者集会の夜。彼らは彼らの考えで有機農業を語る。正しいとか間違っているとかではなく、事実であり、事実が正しいと考えることから組み立てよう。