最近興味の対象が変化してるかなぁ、

と思っている。

ここ3年ぐらいSF小説とか宇宙とかヒコーキとか量子力学の本とか軍事ものとかずーっと興味が保っていたし、同時進行で空いてる時間に昔懐かしのプラモに挑戦(ヒコーキ専門。エアブラシまで購入!)したり、いろんなヒコーキの写真撮ったりとそれはそれでひとつの世界を形づくっていたんだが、今年に入ってどうも調子が停滞していた。ていうか興味が萎え始めていた。

まあその世界は突っ込めば突っ込むほど専門的な領域があるし、自分がついていける限界もあるワケでムリもないとは思っていた。で、ここ半年は作ること見ることに興味を失った分音楽聞いて満員電車や出張の移動時間を埋めていたのだけれど、心のどこかである種の不安がもたげていた気がする。おれって退化してるんだろーかということについてだ。SF小説とかにハマる以前と以降では、まだ「知識を仕入れたい」という欲求が共通点で、音楽になってからは、その「仕入れ」の欲求というか強迫観念めいたものが消え失せているのではないか? その可能性に自身の退化を予期したということだ。

で、最近また活字への興味が復活したらしい。きっかけは『生きている日本のスローフード』という本。シゴトの帰り、宮崎の空港で待ち時間があり本屋でこの本を見つけ、実は本屋の周りを30分ほどもうろつき、買うか買わないか非常に葛藤してしまった。ヘンな葛藤で、自分が食べ物のシゴトしてる関係で、その本がシゴト関係、というだけで抵抗感があった。実はSFの世界にハマる前自分はこれでもかというくらいそのテの関係本のオニ、それこそ食や農業の本をむさぼるように読んできていて、ある時それ(休みの日使ってまでシゴトの本をあさるサビシイおれ)に嫌気がさし、その反動がSFになったワケだ。しかし空き時間を埋められるマシな本も他に見あたらず、大枚2千円を払ってとうとう買ってしまった。

内容だが、宮崎椎葉村の昔ながらの食をカラー写真とともに紹介するという内容で、筆者の言わんとすることは「スローフードという軽薄なコトバが流行っているが、宮崎椎葉にこそ本物のスローフードがある」ということらしく、内容に自信あるなら題名にスローフードなんて使うなよと思いつつその計算高さ(流行のキャッチーなネーミングは書店の流通に受け入れられ易い)に苦笑い。しかし内容は確かで、読みやすい文章とボリューム、写真の美しさも手伝い僕自身はどんどん引き込まれた。正直いってスローフードなんてネーミング必要ない実力の本でした、ほんと。著者の飯田辰彦さん、ありがとうございます。

さてと、これが食関係の本を意識して遠ざけていた自分にとっては予想外に新鮮な感動だった。本の内容への感動というより、あ、僕は食の本読んでもいいんだという、トラウマから開放されたかも知れないという、とても自分史的な感動を味わったのだった。ブログをやろうと思ったのもここに端を発すると思う。これが回帰なのか退化なのかは今のところわかりましえん。


写真は熊本水俣山奥のお茶農家、SAさんちにある「ねこバス」の停留所