イメージを食べる

食の文化は、外に向かって開かれた、ダイナミックな開放系である…食においては、人間は、貪欲に新しい要素を取り入れようとしてきた…私たちの食の文化は、もはや物質的な基盤を離れて、イメージの生産と消費の領域に大きく比重を移している。様々な食べ物のおいしさとは、すなわち、その食にまつわるイメージのおいしさでもあるのである…イメージでものを食べる、ということは、脳の部位で言えば、大脳皮質の側頭葉でものを食べる、ということである。側頭葉には、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚などの様々な感覚が統合される連合野が存在する。ここで、様々な感覚が融合され、さまざまな体験をエピソードとして記憶し、そして編集することによって様々な「意味」を見出し、創り出している…

 ダイナミックな開放系、という言葉ですぐさま思い浮かんだのが、福岡伸一さん著『生物と無生物のあいだ』という本で語られていた世界だ。福岡さんは、生命とは動的平衡にある流れであるとしている。徒然草だったか、…行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまることなし…とあるが、生命体を構成する物質のすべては流動的で、同じところに留まらず、それは生命体の内と外を選ばない。ということは我々が生命と呼び習わしている物体の本質は「これ」と指呼できる特定のものではなくて、そのような“状態”をさす、ということだった。
 人間が常に、貪欲に新しい要素を取り入れるという意味では、食は常に変化している。家庭の食卓でもそうだし、こうしたことは町場の名物の変化でもそうだ。沖縄のタコライスゴーヤチャンプルーといったB級グルメなんかそうだろう。どこどこの食はこうあらねばならないなんて決まりもない。文化というのは何か既定のモノサシではなく、その地域のその状態をさすものなのだろう。
 茂木さんも、食の文化というものに対して、どうあるべきとは言っていない。食文化と呼ばれるものが生成される単位として、その物語に参加するヒトがどのようにふるまうのか、人々のどのような原理によって食の文化という状態が成立し得るのか、と示しているに過ぎない。
 こう考えると、文化を守るとはどういうことなのか?
 古くから親しまれてきた味を守ることではないのは明らかだ。食においては、そのような食なり味なり料理なりが生み出された背景を大切にする、という考え方がひとつある。しかし、文化というものが“状態”を示す呼び方なのだとすれば、これをどうすべきという見方は論点が違うようにも思える。我々は、食というものに貪欲に参加するしかなく、手前勝手でもなんでも良いから、貪欲に“おいしさ”に対する感性を磨いていくしかないのかもしれない。そしてそこから、人々の記憶に残る物語を紡ぎ出していくことが、文化を守ることになるのではないか。