在来種は宝捜し…岩崎政利さん

buonpaese2007-06-22


 2003年の冬のシゴトで、長崎で自家採種を進めている農家の岩崎政利さんのお話を聞く機会を得た。僕はそのとき、同僚の成田国寛くんと、種は旅するんだよなぁ、とひとつ大きな世界が広がった思い出がある。大切な言葉たちなので、拙くはあるが当時の記録を多少の加筆修正のうえで、何回かに分けてここに再録する。

■種の世界は扉が開かれたばかり
 私は若いときに体を壊しまして、大学病院等転々としまして、結果的に2年近く寝たきりの生活をする中で、農薬をやめよう、化学肥料をやめようと決心をしてこの有機無農薬の農業を始めたわけですけれども、早いもので、20年もすぎたということです。その一環として種の問題も取り上げてきました。地道な運動でありました。種取りの技術が、今の農家の中に、ほとんどその技術的には残されていないということがあって、なかなか種が関心がいかなかったのが事実です。
 今全国で種取りの運動が広がってきつつありますが、種の取り方、保存の仕方、選抜の仕方、あるいはどういうものが今の時代に向いているか、まだ扉は開かれたばかりだと思います。これからも、ますますこの運動をすすめていきたいと思っています。

■今の時代にあう在来種を
 私は、地方の伝統野菜をひとつひとつ集めていくなかで、そのすばらしさに感動してますし、こんなすばらしい野菜が残っていたのか、あるいはそのまさにその食べておいしい野菜が、寸前に消えようとしていることも、そういう野菜もあることを知りました。在来種、固定種はまるで宝物、宝探し、そんな感じですね。そんな野菜と出会ったときに、本当にすごい感動と喜びを覚えます。
[おいしい在来種]また、自分はなんでこの在来種が、と思って作ったような野菜を、それを食べた消費者が、あれはおいしい言う。あ、そうかな、と消費者によってまた気づいて残している在来種もあります。そういうふうに消費者の方に言われること、食べておいしい野菜を見出し、作り出していくことが私たち生産者として、これからは非常に大切な要素だな、という感じもします。その中にこういう固定種や在来種、自家採種した野菜がたくさん入るという感じがしています。
[生命力の強い在来種]また、こういう伝統的にその地方で受け継がれている在来種、固定種というのは、非常に、生命力が強いということ。それに比べて、今のF1種というのは、見栄えもよくて、大きくて、ある程度の耐病性、といいますか、病気にも強くて非常に作りやすいことも事実ですが、生命力に関しては、非常に在来種が強いのもわかってきました。
 その生命力として、究極は土と、太陽と水と人、そういう中でものができる、そういう時代がひょっとしたらこの種を育成することによって花になっていくんではないかと、そういう夢、ロマンが目標に生まれてきまして、種の運動はこれからの新しい農業の中では、避けて通れない運動であるという感じがします。
[自家採種の大切さ]その一方で、今の時代にあう在来種を見つけることが非常に難しい。在来種は個性が強くて、地方が違えばその地方にあわない、という種もたくさんありまして、探すだけではなく、どういう在来種を残していくか、非常に、悩み、探し求めてきたわけですけども、このことはですね、私、有機農業をしてる中で、これは大切なことであるということに行き着いたことも事実であります。この課題の延長線上にも、自家採種というものが位置付けられるような気がします。
■在来種は宝捜し
 お話の中で「種というものが、私たち生産者から非常に遠いものになっている」という言葉が印象に残った。生産者と消費者の距離が遠くなることで見えなくなってきた「顔の見える関係」をしっかり結んでいく作業が、これからの流通に求められる大切な役割と考えるとき、食べ物を作る営みの中にも、大きな時代の流れの中での「分業化」が進み、大切な本質が抜け落ち始めているのではと、素朴に思った。たとえば、私たちが昔から「ほうれん草」と呼び親しんできた野菜。在来の日本ほうれん草は今では珍しく、その大半がF1品種。品種がいつのまにか取って代わられている。背景には様々な事情があるのだが、「種」を考えるとき、作り手がどんな種を選ぶかは、食べ手が選べないだけに、とても大切なことと思う。
 岩崎さんは今の時代にマッチした種(在来種や固定種)を見出すのは困難である、とも話していたが、その困難な作業を、楽しさやすばらしさとしての「宝捜し」という言葉に置き換えたりする。それは「自分にしかない野菜を作りたい、もっとおいしいものを作りたい」という思いのなかでの、農業の「農」と「業」、本質と必然性の両方を追いかける逞しさなのではないだろうか。

岩崎さんちの種子採り家庭菜園

岩崎さんちの種子採り家庭菜園