EU市民とヨーロッパ人

 最近考えることが、移動ということだ。何が移動するかというと、土地・人・モノ・カネ・情報の5つについてそれぞれ。土地と人は領土と国籍だから国家の根幹で、この移動は明確な制約がある。情報といえば国家機密とかを除きほとんど自由、最近ではタダの情報がわんさかある。カネは金融自由化というから、自由なのだろう、国境を越え、情報と同じように飛び交う。そしてモノだ。モノ、品物、商品の性格は国境を越え自由でもあり、関税などの制約で不自由でもある。
 ……などなど、移動し易い何かと、し難いな何かの格差が様々なひずみを生んでいるのではないかと考えるのだ。単に自給であるとか、安全保障とか、自由化であるとかを思うのではなく。
 と、今日読んでいた本で、EU加盟国も国によって国民の定義が違うことを知った。生地主義血統主義という概念、国民を定義するときの“ものさし”のようなものがあるのだそうだ。血統主義の代表はドイツ。ゲルマン民族というか、ドイツ人であればどこに住んでいようと国籍取得が容易で、外国人が何代ドイツに暮らそうと、国籍取得するのは至難の業なのだそうだ。他方、ほぼ生地主義はフランスで、血統にかかわりなく、フランスの国で2世代生まれ続ければ、すなわちおじいちゃんからフランスに居住している孫は、それだけでフランス国籍を取得できるのだそうだ。それぞれ厳密には様々あり、こうした認識が生まれるには歴史があったのだろうが、島国日本人が普段意識しないことなので意外に思った。
  それぞれが違うことを自らのアイディンティティとしているヨーロッパ
 ……か。ヨーロッパ連合のことと絡めてこれを考えるとややこしくなる。おじいちゃんのころからフランスに住んでいたアラブ人の孫はフランス人として、すなわちEU市民として自由にドイツに住み地方自治参政権も持てるが、ドイツに何世代住んでいてもドイツにいる限りドイツ人にはなれず、すなわちEU市民にはなれない。人の移動について。こうしたことを乗り越え乗り越え、EUに“ヨーロッパ人”が生まれている。