農村女性民主主義……山下和子さんその2

buonpaese2007-05-15

 K子さんがめざすのは、さみず村の女性たちが気軽に集まれて、生き方に誇りと喜びを取り戻す、自前の、ゆるやかな、でも少しずつ広がっていくコミュニティなのかなと思う。和子さんは、少しずつ広がっていく、その過程をプロデュースする楽しみを温め、実行する。
 勲さんと和子さんの暮らす家は、前々からおばあちゃんのおいしい“おやき”や“お漬物”が人づてに有名で、勲さんのおおらかな人柄が、みんな気軽に集まれる場としての宿泊施設“へんぺさんち”や、今改築中の研修施設などを生んできた。だから和子さんの話しを聞く前は、そんな“場”作りの一環なのかな、と思っていた。
 でも、これは単なる“場”という固定したもの、何かが出来上がっておしまいあとはどうなるかナ、ではなくて、“人がふれあい親しみを増し楽しくなっていくプロセスってどうやったら生まれるんだろう”というような“生まれていく流れのビジョン”が先にあって“場”のイメージが固まっていったような気がした。

 これは成功とか、失敗とかではなくて、人のつながりというものがどのように育っていくのか、村にもいろいろな人が暮らしているが、それぞれのすばらしさをみんなが認め合えるよう、心を開けるようになるにはどうしたらいいだろうかを、議論ではなく形にするための“くふう”なのだ。だから成功とか失敗とかの概念とは無縁だろう。ゆっくりと、小さな善い時をひとつずつ重ねていく。
 和子さんは、自分がすばらしいと思ったさみず村を、ここに暮らす人々を愛している。月並みな言い方になってしまうが、そういうことだろうと思う。それぞれのすばらしさをみんなが認め合える、そんなさみず村がここから生まれればと夢に描いているのだと思う。
 農村女性民主主義
 そんなことばが思い浮かんだ。主義なぞどこ吹く風と和子さんは言うだろうが、農村は、近代的=民主主義的な考え方への抵抗感を心の奥底にしまっていると思う。個人主義ではない共同体としての農村は、都会のようにはいかない。
 しかし昔のままでいいのではない。因習的な考え方は、そうせざるを得なかった時代の記憶なのだから。その中に大切なものも残るだろう。おおらかで美しい人間関係があるのも農村のすばらしさだ。つらいことと喜びを共に分かち合えるのも他に替えがたい。しかし少しずつ脱皮できるものもあるだろう。和子さんが教員時代に農家の子どもたち、父兄の皆さんと触れ合って感じていたことは、そんな愛しさと憎さのないまぜの“私たちの暮らす場所”なのではなかったのかと想像する。
 そして和子さんの今日がある。
 和子さんは“場”をつくることで都会の人を招き交流もした経験から、その良さと、徒労感も知っている。祭りの後には変わらぬ日常があるし、祭りのための単なる場作りではないのだなぁと思ったのは、和子さんは村の仲間みんなで育てることができる可能性を考えていた。みんなで日常の楽しさを共有し、手作りの新しい日常をつくりたい。“私たちの暮らす場所”なのだから。
 大切な、大切なことだと思う。おいしい村がひとつ、見つかった気がした。