交易と言語?

 交易も言語も同じだという。
 2者の存在を前提とし、原初に概念が共有されていなかった意味で両者は同じだという。
 交易においては沈黙の贈与によるファーストコンタクトがなされ、言語においては音素の発声によるファーストコンタクトがなされ、以降連綿とした返礼の応酬によりそれぞれとも、ある体系として共有されて行き、交易は貨幣を媒介物として転訛し、音素は言語を媒介物として転訛したとのことである。
 なるほどと思う。しかしこの先が考えどころだ。
 このように見ると言語や貨幣は、2者間のコミュニケーションの道具とみなして自然だが、その逆だというのだ。人間は言語の表す姿に、貨幣の表す姿に自分を変える。
 例えば言語では、2者間に立ち現れる言葉の示す姿に矛盾のないよう自分を変えていく。一旦何らかの言葉を発した人間は、相手がそれと理解するよう、次の言葉、その次の言葉を重ねて、最初発した言葉の奴隷になっていく、囚われていくと。何かを説得したと満足したつもりが、相手は思惑とは別の理解をしてしまうことは誰もが経験する。
 媒介物により体系化された世界が事実であり、実体のない網の目においてのみ、その位置関係、時間の関係においてのみ、人間は存在を(相対的に、暫定的に、かすかに)示すことが可能なのだ、ということである。
 ……それはほんとうだろうか?