主体を自らに引き寄せて

 ボクがBM技術協会の機関紙『aqua』に、少しだけスローフードの本のことを書いた件はこの前触れたが、あの後、その団体の椎名さんに「おごってやる」と呼ばれたのだ。


 まず椎名さんから「おまえは活動家でも官僚でもなく表現者なのだということがワカッタ。どんどん書け!」と一喝され、うれしいやら悲しいやらだったのだが、その話を聞いて、そもそも僕らを巡る“食”の問題は、いったいどこにあるんだろうかについて、考えさせられた。


 書く前に、椎名さんから「農家はどんどん本読まなきゃいけないのだ」と言われていたこともあり、まずは「主体を自分に引き寄せて、知識や見聞を広げていくのもいい」とだけ(農家の皆さんに)(とてもじゃないが「表現者」にふさわしいとは言えない言い回しを使って)書き、それらしくお茶を濁したことも心に残っていた。


 その日の椎名さんの話は、宮元常一や柄谷行人なんかの名前がぽんぽん出て来、自分が最近貪るように読み漁りしている世界史のことや、料理という文化、特にヨーロッパのこともオーバーラップして、さて表現者とは何をどう表現するのかについて、不肖ながら考え始めてしまったのだった。


 そのとっかかりは第一に「“食”という視点から世界なり内面なりをしっかりフォローしていく」……という立場に立つことだろう。


 第二に、食糧、農業などから規定され、暗に自らを“糧を業とする者”としての“農業者”という言葉に、精神的にも経済的にも安住してしまっている「農家(と呼んでいいのかどうか)の皆さんに、何らかの“知”を以ってその固定観念、諦観を脱却してもらう」……という方向性を備えるということだろう。 

 そのうえで第三に「“食”に求められるつくり手と食べ手双方の価値観、価値基準を転換させる(もう転換し始めている)メッセージを紡ぎ出す」……という発信力を身につけることだろう。


 そのヒントとして考えているのが、まだ言葉足らず、こなれていないのだが、“食”の備える価値を、物の価値から情報の価値、メッセージ性にシフトしていくべきではないかということだ。
 このことをうすうすと感じたのは、フェラン・アドリアからだ。表面上はミシュラン三ツ星、想像もつかない味としてのヨーロッパ先端の食の“知的エンターティメント”を伝えるに留まるが、これを深読みすると、ソシュールやバルトなど言語、記号学構造主義などなどにビミョーに触れてくる。要は“食”は媒体であって、文学のようにフクザツな記号として自己組織化……やめとこう、ワケわかんないと女房に揶揄される。


 例えば、充たされた食を享受している現代社会が、その裏側の飢餓貧困も内在させている以上、日本の国は様々に、外国の食を始めとしたモノやサービスを受け入れなければならないだろう。このとき日本の“食のつくり手たち”が、農地や自然、野生を手放していいはずがない。守るとか、国が守るべきであるとかではなく、自らの知性感性によって、その美として育むことによって、もっと高度に社会の了解を獲得するべきなのではと思われるのだ。ということでもあるし、多分別の意味で思想的なことでもある気がする。


 こうしたことを「……せざるを得ない」で追い込む手順ではなく、自ら先に紡ぎ始めることの含意として、椎名さんの「どんどん本読まなきゃいけない」があったような気がするし、「主体を自分に引き寄せて」も通じてくると思う。あとは表現の質である。修行である。