いのちの食べ方

buonpaese2008-02-02

 この前お伺いしたBM協会で、事務局のHさんがボクに「いのちの食べ方」って映画見た?と聞く。しらなかったのでHPにアップしてあるダイジェストを見た。う〜ん、とここのとこ頭の隅でつかえてる思いがあるゾと気付いたりしたのだが、今日大阪のSさんがエコフィードってどうなのと聞いてくるものだから、やっぱ考え整理しなくちゃと……しかし話せば長いので気が引ける……
 まず「いのちの食べ方」については(http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/)をのぞいてみよう。現れる牛の部位分解イラストの左、部位でいう外モモのtrailer(http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/main/wmv/movie.asx)を押すとダイジェストが見れる。工場で機械的に抹殺されていく家畜たちの映像がこれでもかと続いていく。まったく圧倒的にして、見ればその悲惨さが決定的に理解される映像群なので説明は省く。
 食べ物の素性が見えないことで、食べる人がその素性に無関心なこと。その何も知らない僕たちが国民を形成しているならば、そこから生まれる政策制度法律はそれなりにしかならない。その範囲で自由な資本主義経済が進行するなら、自分たちがどんなもの食わされても驚くには当たらない。僕たちは知らないことをいいことに、無知であるがゆえに幸せな食生活を送っているとも言える。
 話は長く、書くのも自分の考えを整理するのも気が引ける、と思うのは、僕たちは本当は無知ではないからだ。悲惨な殺され方をする家畜たちを知って、僕たちは「悲惨じゃない頃仕方に変更しろ」と言い始めるだろう。ではどの程度なら許されるのか?生き物を自分では殺さずに?見てみぬふりをしながら、問題が起こってから。
 僕たち日本人は、その食を国内はおろか海外に依存して成り立たせている国民だ。食肉のことだけではない、見てみぬふりで食べてしまっている悲惨がどれくらいあるのだろうか?
 エコフィード認証は、コンビニで廃棄されている賞味期限切れの弁当などを飼料化してリサイクルする取り組みのようだ。いいことなのだろうと思う。
 しかしな〜とも思う。
 世界中からいろんな食べ物かき集めて便利に便利にとサービス業で発展してきたコンビニさんを悪く言うのではない。24時間ムチャクチャ明るい電気使って、10時から夕方までしか開けない、町の小さな惣菜屋さんが閉店前に大安売りして在庫を捌いていた効率的でエコな販売方法を淘汰しちゃって、こっちが便利ですヨ24時間ワガママOKですヨ、ハナからエコなんか考えてませんヨと社会に伸して来た業界に文句を言うつもりもない。
 しかし僕が不気味に思うのは、よくテレビでコンビニ強盗とかで出る防犯カメラの映像だ。ホントみんな寝静まっている真っ暗な深夜に、煌々と明るい蛍光灯の店内で進むモノクロの事件映像。カメラは何も言わず事件を映すだけ。そんな異常な空間で役割を演じている店員は、客は、強盗は、「いのちの食べ方」に映し出される家畜たちと似ていないか??

 コンビニさんがエコフィードなるものに絡んでくるのを考えるとき気付くのは、要は昔の流通システムのほうがむちゃくちゃエコロジカルだったのではないかということだ。そしてコンビニさんを悪く言わないのは、コンビニさんを必要としておる僕たちが、この数十年で相当にワガママになってしまったからイケナイと思うからだ。エコとは都合のいい言葉だとも思う。なぜならコンビニが無駄を生むのはハナからわかっていて、それをリサイクルするからすばらしいと言うんでしょう。当たり前のことではなかったのか? エコフィードについては、それが免罪符となってしまうのではなくて、コンビニ業界が、それだけ社会的責任を考えるのであれば、業界として「ほんとうの便利って何?」というような本質に迫っていくきっかけになればいい、と思う程度だ。
 賞味期限切れのムダについては、「あ切れちゃったぁ」と口空けてぽかんとしてないで、コンビニは賞味期限が切れないうちに、安売りでも叩き売りでも何でもして、在庫をなくすことで解決しなければならないのではないか?警戒すべきは、あこれで認証とれればエコ企業のイメージアップじゃんとばかり、コンビニのみならず、食肉大手から宅配業者やらが、新たなウリをつくっちゃって「エコなお肉です」と展開することだ。あり得るから僕も関係ないわけでもないので笑えないのだが…。
 畜産の飼料の問題は、僕たちが必要としているお肉が、ほんとうにまっとうな育て方のものはムチャお高いものなのだという昔の常識に戻って、毎日食べるのではなく、時々食べるぐらいに生産を量的価値から質的価値に転換して生産者の経済を立て直す中からしか解決できないのではないか? 人間のワガママの最終処分場みたいなコンビニの賞味期限切れ弁当、世界中で飢えている人に回すことなんかこれっぽっちも考えないで生み出した商品を、「あ切れちゃったぁ」で餌にすりゃいいやっていうのは、現状より良いことなのだろうが、俯瞰して考えれば、倫理というか教育というか、相当破綻してる。

 さて関連して。
 僕が感じるのは、いまこの現在、前述の映画が生まれてきたことと、この前書いた書評『イタリア有機農業の魂は叫ぶ』の著者ジーノ・ジロロモーニが触れている内容(http://d.hatena.ne.jp/buonpaese/20080127)が重なると思えることだ。大量生産大量消費そして大量廃棄の社会構造が抱える問題についは、有機農業の世界ではそれこそ30年も前から触れてきたし、畜産という業種の抱える根本問題としてこの問題に触れてきた人はたくさんいる。そしてこの構造がBSEから鶏インフルエンザほはじめとした様々な家畜伝染病や、もっと問題を拡大すれば文明の問題にまで関係してくることは最近『銃・病原菌・鉄…1万3千年にわたる人類史の謎』(ジャレド・ダイアモンド)という本で知った。人類は有史以来、どうも回避が効かないフィードバックループが加速しているようである。自己解凍(考えるのやめちゃって溶ける。都会で心地よく暮らすことを決心する)するか、自己防衛(スピンオフ。最近の新規就農のワカモンみたくするかそれに近い経済状況を生み出す)するかと考えると、僕は半分完成していないクローン人間のように、表皮が溶けてて中身がまだ人間(でもクローン)のような、ハンパな状態のようであり心がとても痛い。ああまだ言い足りず。映画見に行こう。
 これ↓は今度書きます。必読……

銃・病原菌・鉄〈上巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎

銃・病原菌・鉄〈上巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎